日夏の歴史再発見
日夏ヴォーリズ建築をめぐって最近色々あります。
2月26日には、日夏木曜ハウスが「しが彦根新聞」と「中日新聞滋賀版」に大きく取り上げられました。
そして、3月3日の10時から15時の日夏木曜ハウスでは、新聞で見かけて多くの方が来場されたとのことです。
また、3月3日には、朝から城陽小学校3年生49人が見学に来てくれました。
日夏歴史研究会代表の成宮恵津子さんと寺村滋さんが対応して下さいました。
二階の日夏村役場の議場であった大広間で、説明もしていただいたそうです。
日夏の人々が心を込めた建物ですが、かなり痛んでいるところもあります。
子どもたちにはどのように写ったのでしょうか?
写真がないのが残念です。
今日3月7日午後、日夏歴史研究会の学習会と総会を開きました。

植野博嗣氏による植野誠一氏が撮影された昭和12年(1937)の日夏の写真、『情景 昭和12年』を見る。宇曽川堤、戦備・訓練、獅子舞・春祭・収穫、御田植祭、彦根市制施行の項目に分けて編集されていました。
宇曽川堤の桜は多くの人々が訪れ、花見客相手の店も出したとのことを聞いていましたが、そんな風景も収録されていました。
農作業もあり、中には以前に見かけた広泉寺仏教青年会耕作田の田植え風景も含まれていました。
撮影された植野誠一氏はライカのカメラを持ち、絵画も嗜まれたとのことでした。
また、「日夏村のアメリカ合衆国移民について」の寺村二三夫氏の報告がありました。
明治41年(1908)7月の「日夏尋常高等小学校鉄柵寄付簿」(日夏村役場文書)によると寄付された米国在住者が65名、更に同年同月の「日夏尋常高等小学校第二期学校建築費寄付簿」に記載されている米国在住者を加えると81名に達する。少し下りますが昭和10年(1935)5月の日夏愛郷会の機関紙創刊号『日の出』に記載された米国在住者は37名が確認できる。
さらに、寺村武次郎氏のアメリカからの手紙などにより具体的なやりとりについて紹介された。日夏の移民の全貌については更に調査が必要であることを確認しました。
地域の様子を伝えてくれる写真を収集することが、大切であることを痛感するとともに、今後調査や聞き取りを行なうことの大切さを再確認致しました。
2月26日には、日夏木曜ハウスが「しが彦根新聞」と「中日新聞滋賀版」に大きく取り上げられました。
そして、3月3日の10時から15時の日夏木曜ハウスでは、新聞で見かけて多くの方が来場されたとのことです。
また、3月3日には、朝から城陽小学校3年生49人が見学に来てくれました。
日夏歴史研究会代表の成宮恵津子さんと寺村滋さんが対応して下さいました。
二階の日夏村役場の議場であった大広間で、説明もしていただいたそうです。
日夏の人々が心を込めた建物ですが、かなり痛んでいるところもあります。
子どもたちにはどのように写ったのでしょうか?
写真がないのが残念です。
今日3月7日午後、日夏歴史研究会の学習会と総会を開きました。
植野博嗣氏による植野誠一氏が撮影された昭和12年(1937)の日夏の写真、『情景 昭和12年』を見る。宇曽川堤、戦備・訓練、獅子舞・春祭・収穫、御田植祭、彦根市制施行の項目に分けて編集されていました。
宇曽川堤の桜は多くの人々が訪れ、花見客相手の店も出したとのことを聞いていましたが、そんな風景も収録されていました。
農作業もあり、中には以前に見かけた広泉寺仏教青年会耕作田の田植え風景も含まれていました。
撮影された植野誠一氏はライカのカメラを持ち、絵画も嗜まれたとのことでした。
また、「日夏村のアメリカ合衆国移民について」の寺村二三夫氏の報告がありました。
明治41年(1908)7月の「日夏尋常高等小学校鉄柵寄付簿」(日夏村役場文書)によると寄付された米国在住者が65名、更に同年同月の「日夏尋常高等小学校第二期学校建築費寄付簿」に記載されている米国在住者を加えると81名に達する。少し下りますが昭和10年(1935)5月の日夏愛郷会の機関紙創刊号『日の出』に記載された米国在住者は37名が確認できる。
さらに、寺村武次郎氏のアメリカからの手紙などにより具体的なやりとりについて紹介された。日夏の移民の全貌については更に調査が必要であることを確認しました。
地域の様子を伝えてくれる写真を収集することが、大切であることを痛感するとともに、今後調査や聞き取りを行なうことの大切さを再確認致しました。