石寺のエコ民家ほか
5月23日(土)滋賀県立大学の近江環人再生学座のコミュニティ・プロジェクト実習Ⅱで彦根市下石寺集落を見学しました。
テーマは「環境に配慮した暮らしの実践」
指導は地域共生センターの鵜飼修先生と小島なぎささん。
趣旨は、2007年1月から地域のポテンシャルを活かした「環境に配慮した暮らし」の実践の場として、薪ボイラー薪ストーブによる里山バイオマス利用、省エネ生活、空き民家を活用した学生寮やコミュニティスペースの運営、まちづくり会社の設立など、伝統的集落でありながら、先進的な取組を実践しているとのことで、それらの取組を体感し、環境に配慮した暮らしのあり方を考えることでした。

先ず、荒神山中腹の旧日吉神社跡から下石寺集落を遠望。里山整備が行われていましたが、登った時には終了でした。赤松の松枯れが目立ち、伐採整理の必要があるとのことでした。伐採した木材は、マキにして薪ストーブや薪ボイラーに活用されます。

昼食後集落内の町歩き。明治29年9月12日の洪水最高標の石柱があり、大きな太鼓が納められた総蔵、外壁に船板を張った蔵、集落の廻りのよどんだ堀、琵琶湖も直ぐでした。



真宗本願寺派の本隆寺には、「人生は、長さでなく深さである」との標語が掲げられていました。
その後、エコ民家の見学と薪割り体験。そして、3号館で気づいたことや物を書き出してワークショップ。更に懇親会も。ここにはコミュニティ・バーも設けられていました。

学生寮が設けられていますが、更にコミュニティ・スペースを活用して事業も更に計画されているようです。色々な組織があり、町づくりに取り組まれている一端を知ることができ、有益でした。
テーマは「環境に配慮した暮らしの実践」
指導は地域共生センターの鵜飼修先生と小島なぎささん。
趣旨は、2007年1月から地域のポテンシャルを活かした「環境に配慮した暮らし」の実践の場として、薪ボイラー薪ストーブによる里山バイオマス利用、省エネ生活、空き民家を活用した学生寮やコミュニティスペースの運営、まちづくり会社の設立など、伝統的集落でありながら、先進的な取組を実践しているとのことで、それらの取組を体感し、環境に配慮した暮らしのあり方を考えることでした。
先ず、荒神山中腹の旧日吉神社跡から下石寺集落を遠望。里山整備が行われていましたが、登った時には終了でした。赤松の松枯れが目立ち、伐採整理の必要があるとのことでした。伐採した木材は、マキにして薪ストーブや薪ボイラーに活用されます。
昼食後集落内の町歩き。明治29年9月12日の洪水最高標の石柱があり、大きな太鼓が納められた総蔵、外壁に船板を張った蔵、集落の廻りのよどんだ堀、琵琶湖も直ぐでした。
真宗本願寺派の本隆寺には、「人生は、長さでなく深さである」との標語が掲げられていました。
その後、エコ民家の見学と薪割り体験。そして、3号館で気づいたことや物を書き出してワークショップ。更に懇親会も。ここにはコミュニティ・バーも設けられていました。
学生寮が設けられていますが、更にコミュニティ・スペースを活用して事業も更に計画されているようです。色々な組織があり、町づくりに取り組まれている一端を知ることができ、有益でした。
不思議な木型
この一週間は、結構忙しかった。
11日の月曜には、日夏里館2階の耐震改修の打合せを行いました。
7月末から8月末の予定で実施することになります。
ところで、去る14日午後、彦根市教育委員会の井伊さんと齊藤さんがお見えになり、旧日夏小学校学校博物館の部屋にあった資料を確認いただいた。昭和61年解体された日夏小学校2階にあった資料で、2015年4月1日発刊の日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第36号で一点紹介しました。

お多福さんと思われ、像高は19.5㎝です。しかし、タテに切り目の溝があり、後ろには割れてしまわないように楔状に埋木がなされています。これは、和紙で張り子を作るための木型と考えられます。


これと一緒にあった資料を残しておいたのですが、他にも不思議な木製品や「日夏学校」の角印が押された和本がたくさんあります。
不思議な木製品を見ると、やはりどの木製品にも切り目が認められ、同様の張り子を作る木型と考えられます。魚かシャチのような物2点、人の頭部、ドジョウの頭のような物、そして大黒さんの面もあります。
この木型から作られた張り子が、何のために、どのように利用されたのか全く不明です。どなたかお気づきの方はお教えいただければ幸いです。
17日は、西福寺の永代経と降誕会でした。

最後に、2015年5月18日17時過ぎの日夏里館の様子です。

昨夜から、源氏ボタルが見られました。
11日の月曜には、日夏里館2階の耐震改修の打合せを行いました。
7月末から8月末の予定で実施することになります。
ところで、去る14日午後、彦根市教育委員会の井伊さんと齊藤さんがお見えになり、旧日夏小学校学校博物館の部屋にあった資料を確認いただいた。昭和61年解体された日夏小学校2階にあった資料で、2015年4月1日発刊の日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第36号で一点紹介しました。
お多福さんと思われ、像高は19.5㎝です。しかし、タテに切り目の溝があり、後ろには割れてしまわないように楔状に埋木がなされています。これは、和紙で張り子を作るための木型と考えられます。

これと一緒にあった資料を残しておいたのですが、他にも不思議な木製品や「日夏学校」の角印が押された和本がたくさんあります。
不思議な木製品を見ると、やはりどの木製品にも切り目が認められ、同様の張り子を作る木型と考えられます。魚かシャチのような物2点、人の頭部、ドジョウの頭のような物、そして大黒さんの面もあります。
この木型から作られた張り子が、何のために、どのように利用されたのか全く不明です。どなたかお気づきの方はお教えいただければ幸いです。
17日は、西福寺の永代経と降誕会でした。
最後に、2015年5月18日17時過ぎの日夏里館の様子です。
昨夜から、源氏ボタルが見られました。
埋もれさせたくない「講和記念植樹」石碑
平和を願った日夏を示す石碑、草に埋もれた「講和記念植樹」石碑では悲しい。
日夏歴史研究会の5月9日の見学会は「北米移民関係遺跡の見学と清掃」でした。先ず、日夏町のグランドの東角にある「講和記念植樹」の石碑の確認と草刈りを行いました。

作業前はこれ。

この石碑については、日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第23号(2012年3月1日発行)に、写真付きで次のように紹介しています。
講和記念植樹の石碑
昨秋新公民館が完成したとのことで見学に行った時、グランドの片隅に不思議な石碑があることを知りました。現在日夏保育園横のグランドの片隅ですが、碑の正面には「講和記念植樹」、裏面には「昭和二十七年四月」と刻まれています。
この石碑は、かつての日夏小学校グランドの北角、給食室入り口近くの小山の上にあったようで、グランドの東角に移設されていましたが、保育園舎の増築に伴って奥まった状態になって、あまり振り返られることが無くなったようです。年配の方にお聞きしても誰が建てたのか、その事情は知られていないようです。
この碑は、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約を記念するものです。1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日発効になったサンフランシスコ講和条約を記念しての植樹を伝える石碑です。
彦根城の堀端でも講和記念及び市制15周年を記念して植樹がなされているようです。日夏は多くの人が北米に行っており、この講和条約によって行き来ができるようになったと考えられ、その喜びから植樹を行ったものでしょう。
ところで、彦根市日夏青年団文化部発行の機関誌『清流』第4巻第1号(昭和27年5月5日発行)の後記には次のように記されていました。
○待望の講和発行も遂にその効力を発生し、我が国も再び国際社会の一員として復帰出来た事は喜ぶと共に、我等日本国民は此の歴史的厳粛なる事実を契機としてよりヒューマニズムへの確立に精進したい。
○清流も年を経る事此処に四年、本年度初刊号を此の講和の喜びと共に四月講和号として皆様に御贈りする。
日夏の人々が如何にこの講和を喜んだことか、気づかされます。また、昭和27年4月、シアトルから故郷に帰り喜びを歌った古川与三次郎とカノ歌碑が、宇曽川唐崎公園の一角にあることが思い起こされます。やはりサンフランシスコ講和条約は日夏の人々にとっては、待ち望んでいたことだったのでしょう。
この石碑を建て、記念植樹をした日夏の人々は、草葉の陰からどう思っているでしょうか?
次ぎに、宇曽川唐崎公園にある故郷に帰ることが出来た喜びを詠った歌碑の廻りの掃除に向かいました。先に草刈りや葉刈りがされていたので、サツキの葉刈り柴の片付けと追加の草取りを行いました。少し粗い仕事振りながら、ありがたく思いました。

やはり2つの石碑の設置が同年同月であり、関係を考えざるを得ないように思います。講和条約によりアメリカ移民の多くが故郷へ里帰りが出来、平和の喜びを享受したことを忘れないでおきたい。
そして、平和を、先人とともに強く祈念したい。
草葉の陰からうめき声が聞こえないようにしたいものです。
日夏歴史研究会の5月9日の見学会は「北米移民関係遺跡の見学と清掃」でした。先ず、日夏町のグランドの東角にある「講和記念植樹」の石碑の確認と草刈りを行いました。
作業前はこれ。
この石碑については、日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第23号(2012年3月1日発行)に、写真付きで次のように紹介しています。
講和記念植樹の石碑
昨秋新公民館が完成したとのことで見学に行った時、グランドの片隅に不思議な石碑があることを知りました。現在日夏保育園横のグランドの片隅ですが、碑の正面には「講和記念植樹」、裏面には「昭和二十七年四月」と刻まれています。
この石碑は、かつての日夏小学校グランドの北角、給食室入り口近くの小山の上にあったようで、グランドの東角に移設されていましたが、保育園舎の増築に伴って奥まった状態になって、あまり振り返られることが無くなったようです。年配の方にお聞きしても誰が建てたのか、その事情は知られていないようです。
この碑は、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約を記念するものです。1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日発効になったサンフランシスコ講和条約を記念しての植樹を伝える石碑です。
彦根城の堀端でも講和記念及び市制15周年を記念して植樹がなされているようです。日夏は多くの人が北米に行っており、この講和条約によって行き来ができるようになったと考えられ、その喜びから植樹を行ったものでしょう。
ところで、彦根市日夏青年団文化部発行の機関誌『清流』第4巻第1号(昭和27年5月5日発行)の後記には次のように記されていました。
○待望の講和発行も遂にその効力を発生し、我が国も再び国際社会の一員として復帰出来た事は喜ぶと共に、我等日本国民は此の歴史的厳粛なる事実を契機としてよりヒューマニズムへの確立に精進したい。
○清流も年を経る事此処に四年、本年度初刊号を此の講和の喜びと共に四月講和号として皆様に御贈りする。
日夏の人々が如何にこの講和を喜んだことか、気づかされます。また、昭和27年4月、シアトルから故郷に帰り喜びを歌った古川与三次郎とカノ歌碑が、宇曽川唐崎公園の一角にあることが思い起こされます。やはりサンフランシスコ講和条約は日夏の人々にとっては、待ち望んでいたことだったのでしょう。
この石碑を建て、記念植樹をした日夏の人々は、草葉の陰からどう思っているでしょうか?
次ぎに、宇曽川唐崎公園にある故郷に帰ることが出来た喜びを詠った歌碑の廻りの掃除に向かいました。先に草刈りや葉刈りがされていたので、サツキの葉刈り柴の片付けと追加の草取りを行いました。少し粗い仕事振りながら、ありがたく思いました。
やはり2つの石碑の設置が同年同月であり、関係を考えざるを得ないように思います。講和条約によりアメリカ移民の多くが故郷へ里帰りが出来、平和の喜びを享受したことを忘れないでおきたい。
そして、平和を、先人とともに強く祈念したい。
草葉の陰からうめき声が聞こえないようにしたいものです。
8日(金)は、千手寺花祭り 参加OK
今日は久しぶりに小雨が降りましたが、昨3日には漸く日本晴れの田植えをすることが出来ました。
今日は少しホッとしています。
そこで、ウォーキングがてらに千手寺へ行きました。

副住職さんが居られたので、花祭りのことをお聞きしました。
8日(金)10時から開催され、儀式は30分程度。儀式の後参加者で甘茶をいただくとのことです。
どなたでも参加OKとのことです。
10時に儀式が始まりますので、少し早めに本堂へ参りましょう。
多くの方がウオーキングをしている荒神山林道で、千手寺近くに行くことができます。
今日は、山裾の山門から歩いて登りました。

花祭りは、以前の投稿をご覧下さい。
http://hinatu.shiga-saku.net/e1038960.html
ところで、連休はじめの30日には鏡山へ登りました。
山頂の涼み岩から見た樹海と三上山は絶景でした。

おまけです。
今日は少しホッとしています。
そこで、ウォーキングがてらに千手寺へ行きました。
副住職さんが居られたので、花祭りのことをお聞きしました。
8日(金)10時から開催され、儀式は30分程度。儀式の後参加者で甘茶をいただくとのことです。
どなたでも参加OKとのことです。
10時に儀式が始まりますので、少し早めに本堂へ参りましょう。
多くの方がウオーキングをしている荒神山林道で、千手寺近くに行くことができます。
今日は、山裾の山門から歩いて登りました。
花祭りは、以前の投稿をご覧下さい。
http://hinatu.shiga-saku.net/e1038960.html
ところで、連休はじめの30日には鏡山へ登りました。
山頂の涼み岩から見た樹海と三上山は絶景でした。
おまけです。