県内で唯一残る愛知郡役所の今
2月23日、久しぶりに愛知郡役所の前を通りました。


大正11年(1921)5月竣工した郡役所の建物、こころばえの会が保存運動に取り組み、平成24年9月に『愛知郡役所保存活用運動の記録誌 みんなで考えよう未来を夢あるまちに!!』を発刊されています。
この建物のをめぐって議会でも議論があったようですが、最近はこの建物についての話題は伝わってきません。


冬で雑草は枯れているが、やはり寂しい風景でした。
大正10年(1921)4月に郡制廃止法が公布され、大正12年4月施行され郡は自治体としての性格を失い、大正15年7月に郡役所自体も廃止されます。このため、最後に建てられた郡役所のようです。
郡役所廃止後は愛知郡教育会に移管され、昭和12年(1937)4月滋賀県は愛知郡農会に無償譲渡しました。昭和33年8月に滋賀県は敷地を滋賀県農協中央会愛知支部に有償譲渡し、今日ではJA東びわこのが所有しているようです。
ところで、23日愛荘町町長選挙が行われ、新聞掲載の選挙結果では村西俊雄町長の路線を引き継いだとされる宇野一雄氏が当選されたとのこと。宇野氏は愛知郡役所の建物の活用も考えておられるやに聞きますが、建物の今後を見守ってゆく必要があるように思われます。
ただ、日夏里館のように日夏村役場・日夏村村会議場・産業組合事務所から彦根市に合併後公民館・町民会館として使用されてきた、自治や公民館として活用されたたてものとは大きく異なっています。
愛知郡役所は、床高、建物の高さも高く、やはり威圧的な建物であるように思われ、その後の活用も全く異なっていることを忘れることが出来ないように思われます。
愛知郡役所も、関係者の努力の上で保存され、歴史的建造物が地域の歴史の語り部として活用されていくことを願わざるを得ません。
23日の日夏里館の写真もどうぞ。

大正11年(1921)5月竣工した郡役所の建物、こころばえの会が保存運動に取り組み、平成24年9月に『愛知郡役所保存活用運動の記録誌 みんなで考えよう未来を夢あるまちに!!』を発刊されています。
この建物のをめぐって議会でも議論があったようですが、最近はこの建物についての話題は伝わってきません。
冬で雑草は枯れているが、やはり寂しい風景でした。
大正10年(1921)4月に郡制廃止法が公布され、大正12年4月施行され郡は自治体としての性格を失い、大正15年7月に郡役所自体も廃止されます。このため、最後に建てられた郡役所のようです。
郡役所廃止後は愛知郡教育会に移管され、昭和12年(1937)4月滋賀県は愛知郡農会に無償譲渡しました。昭和33年8月に滋賀県は敷地を滋賀県農協中央会愛知支部に有償譲渡し、今日ではJA東びわこのが所有しているようです。
ところで、23日愛荘町町長選挙が行われ、新聞掲載の選挙結果では村西俊雄町長の路線を引き継いだとされる宇野一雄氏が当選されたとのこと。宇野氏は愛知郡役所の建物の活用も考えておられるやに聞きますが、建物の今後を見守ってゆく必要があるように思われます。
ただ、日夏里館のように日夏村役場・日夏村村会議場・産業組合事務所から彦根市に合併後公民館・町民会館として使用されてきた、自治や公民館として活用されたたてものとは大きく異なっています。
愛知郡役所は、床高、建物の高さも高く、やはり威圧的な建物であるように思われ、その後の活用も全く異なっていることを忘れることが出来ないように思われます。
愛知郡役所も、関係者の努力の上で保存され、歴史的建造物が地域の歴史の語り部として活用されていくことを願わざるを得ません。
23日の日夏里館の写真もどうぞ。
雨森のまちづくりに学びたい!
日夏里館は3年間の改修工事をはじめ、進行中です。
日夏に暮らしながら、他のいろいろな課題も見えるように思います。
村の中を歩くとやはり寂しい景色も見えます。

日夏里館で毎週木曜日に開催されている木曜ハウス、そのメンバーが見学に行かれた雨森のまちづくりは興味深い。借用して読ませていただいた平井茂彦『雨森まちづくり名語録』の、次のような言葉に興味を持ちました。
・やめなかったから続いているんよ、やめたらもう始められんで。
・続けているからできているんです。一度やめたら、もう始められんでしょうね。
(続けることの大切さ、そこから見える、出来ることがあることを知る。)
・弱った、困ったばかり言っていても、まちはよくなりません。
・お金をかけないこと、無理に出てきてもらわないこと、これでまちづくりは長続きします。
・アイデアなんて突然でてくるものでもないんです。裏で毎日考えているから出てくるんです。
・最初は人は楽しくなければ動かないけど、最後は人は(こちらが)一生懸命でなければ動きません。
・まちを美しくするには、きれいな物を作るより、きたない物をなくすることです。
・ひとつのことをやっているときには、もう次の次のことを段取りしていないとダメでしょうね。
・灰をまいて花を咲かせる花咲かじいさんにはなれんけど、苗を植えて花を咲かせる花咲じいさんにはだれでもなれるんやけどな・・・。
・お金もうけでないまちづくりが一つぐらいあってもいいでしょう。
・まちへの愛着や愛情は汗を流してみなければ出てきません。やってみると出てくるんです。
・視察に行くのは、真似するために行くのでなく、真似しないために行くのです。
特別なことではないようにも思われます。
参考にしながら、考えてみたいと思います。
そう、ロウバイきれいでした。

日夏に暮らしながら、他のいろいろな課題も見えるように思います。
村の中を歩くとやはり寂しい景色も見えます。
日夏里館で毎週木曜日に開催されている木曜ハウス、そのメンバーが見学に行かれた雨森のまちづくりは興味深い。借用して読ませていただいた平井茂彦『雨森まちづくり名語録』の、次のような言葉に興味を持ちました。
・やめなかったから続いているんよ、やめたらもう始められんで。
・続けているからできているんです。一度やめたら、もう始められんでしょうね。
(続けることの大切さ、そこから見える、出来ることがあることを知る。)
・弱った、困ったばかり言っていても、まちはよくなりません。
・お金をかけないこと、無理に出てきてもらわないこと、これでまちづくりは長続きします。
・アイデアなんて突然でてくるものでもないんです。裏で毎日考えているから出てくるんです。
・最初は人は楽しくなければ動かないけど、最後は人は(こちらが)一生懸命でなければ動きません。
・まちを美しくするには、きれいな物を作るより、きたない物をなくすることです。
・ひとつのことをやっているときには、もう次の次のことを段取りしていないとダメでしょうね。
・灰をまいて花を咲かせる花咲かじいさんにはなれんけど、苗を植えて花を咲かせる花咲じいさんにはだれでもなれるんやけどな・・・。
・お金もうけでないまちづくりが一つぐらいあってもいいでしょう。
・まちへの愛着や愛情は汗を流してみなければ出てきません。やってみると出てくるんです。
・視察に行くのは、真似するために行くのでなく、真似しないために行くのです。
特別なことではないようにも思われます。
参考にしながら、考えてみたいと思います。
そう、ロウバイきれいでした。
「大地よ甦れ」 カンボジア大地の会
日夏里館で展示していただいたことがあるカンボジア大地の会彦根は、
地雷撤去の取り組みを支援してこられました。
会長の寺村滋氏から、会の取り組みをまとめたカラーの本をいただきました。

「大地よ甦れ」と題したカンボジア大地の会彦根の会長寺村滋氏の小説が中心で、全体は次のように構成されています。
はじめに
大地よ甦れ
爺と孫のボランティア
おさわさん
写真集 (写真に句が添えられている)
カンボジア大地の会会報
平成16年3月24日第1号~平成25年8月30日第23号
あとがき
ゆめなきものに目標なし
目標なきものに計画なし
計画なきものに行動なし
行動なきものに成果なし
と言い聞かせて励まして来られた「カンボジア大地の会」の活動が10年になるので活動の報告書としてまとめられたものです。
東日本大震災に遭い苦境にある人々への思いも併せて編集したとのこと。



太陽光発電と識字教育のビデオのセットが次の世代の活力につながるに違いないと次の目標が記されています。
「行動なくして、成果なし」をつぶやきつつ進むつもりですと結ばれています。
少し学ばせていただいたつもり。
地雷撤去の取り組みを支援してこられました。
会長の寺村滋氏から、会の取り組みをまとめたカラーの本をいただきました。

「大地よ甦れ」と題したカンボジア大地の会彦根の会長寺村滋氏の小説が中心で、全体は次のように構成されています。
はじめに
大地よ甦れ
爺と孫のボランティア
おさわさん
写真集 (写真に句が添えられている)
カンボジア大地の会会報
平成16年3月24日第1号~平成25年8月30日第23号
あとがき
ゆめなきものに目標なし
目標なきものに計画なし
計画なきものに行動なし
行動なきものに成果なし
と言い聞かせて励まして来られた「カンボジア大地の会」の活動が10年になるので活動の報告書としてまとめられたものです。
東日本大震災に遭い苦境にある人々への思いも併せて編集したとのこと。
太陽光発電と識字教育のビデオのセットが次の世代の活力につながるに違いないと次の目標が記されています。
「行動なくして、成果なし」をつぶやきつつ進むつもりですと結ばれています。
少し学ばせていただいたつもり。
物言わぬ語り部たち!
三角屋根は、広い工場の中が明るいように採光窓が垂直部分に取り付けられ、工場を象徴する形です。日夏にあった多くの工場に採用され、最後まで残っていた三角屋根の川崎工場が解体されていました。
2008年8月5日の川崎工場の三角屋根です。

1月31日日夏里館へ歩いて行くときに気がついたのですが、もう屋根は無くなって、部材の取り片付けが行われていました。工場の中の写真はまったく撮ることが出来ませんでした。



川崎工場は軍需工場で、戦争に行かなくていいように多くの地域の人々が働いたと言います。しかし、何を作っていたのか明らかでありません。
戦後はミシンの部品を製造していたと聞いています。金属を削った鉄くずを見たことを少し覚えています。
既にありませんが、2008年8月5日には事務所も残っていました。

三角屋根の工場の姿は、その存在自体が歴史を語っているようでした。
ところで、工場の南隅に坩堝が伏せて残っていました。径約30センチ、高さ約33センチの大きさで、胴に1つの穴があります。何時頃、何を鋳造したのか分かりませんが、日夏里館に譲り受け、保存することにしました。どこまで保存できるか分かりませんが、物言わぬ歴史の語り部として、保存したいと思います。

いろいろある地域の歴史を一人で保存することは出来ません。変わりゆく現在に途方に暮れていると言ったところです。地域の先人の語り部からいろいろなことを聞き伝えることも大切です。しかし、人の記憶は曖昧なところもあり、変化するものでもあります。そんなとき、工場や生活の場で使用された道具や遺物は、時には曖昧な記憶をただしてくれることもあるるように思います。人の語りとともに歴史の語り部として資料・遺物も残しておくことも大切です。
全てのものを残すことは出来ない。また、一人で気づき出来ることはほんのわずかなことです。
今後、歴史の資料が残らなかったマチや語りが残されなかったムラは、歴史の無いムラ、歴史の無いマチになりかねない、そうならざるを得ないように思われます。
日夏村役場の建物を保存をしたいとの思いとも重なりますが、多くの地域の方々の支持と協力が無くては続かないのではと思われ、少し心細くもあります。
2008年8月5日の川崎工場の三角屋根です。
1月31日日夏里館へ歩いて行くときに気がついたのですが、もう屋根は無くなって、部材の取り片付けが行われていました。工場の中の写真はまったく撮ることが出来ませんでした。
川崎工場は軍需工場で、戦争に行かなくていいように多くの地域の人々が働いたと言います。しかし、何を作っていたのか明らかでありません。
戦後はミシンの部品を製造していたと聞いています。金属を削った鉄くずを見たことを少し覚えています。
既にありませんが、2008年8月5日には事務所も残っていました。
三角屋根の工場の姿は、その存在自体が歴史を語っているようでした。
ところで、工場の南隅に坩堝が伏せて残っていました。径約30センチ、高さ約33センチの大きさで、胴に1つの穴があります。何時頃、何を鋳造したのか分かりませんが、日夏里館に譲り受け、保存することにしました。どこまで保存できるか分かりませんが、物言わぬ歴史の語り部として、保存したいと思います。
いろいろある地域の歴史を一人で保存することは出来ません。変わりゆく現在に途方に暮れていると言ったところです。地域の先人の語り部からいろいろなことを聞き伝えることも大切です。しかし、人の記憶は曖昧なところもあり、変化するものでもあります。そんなとき、工場や生活の場で使用された道具や遺物は、時には曖昧な記憶をただしてくれることもあるるように思います。人の語りとともに歴史の語り部として資料・遺物も残しておくことも大切です。
全てのものを残すことは出来ない。また、一人で気づき出来ることはほんのわずかなことです。
今後、歴史の資料が残らなかったマチや語りが残されなかったムラは、歴史の無いムラ、歴史の無いマチになりかねない、そうならざるを得ないように思われます。
日夏村役場の建物を保存をしたいとの思いとも重なりますが、多くの地域の方々の支持と協力が無くては続かないのではと思われ、少し心細くもあります。