北米移民、感動の映画「バンクーバーの朝日」
映画「バンクーバーの朝日」のリーフレットが、日夏里館に届けられていました。
気になるので、彦根ビバシティシネマへ見に行きました。

映画館は久しぶりですが、やはり大迫力でした。
10月の18日の日夏歴史研究会の歴史講演会、「彦根の北米移民」でも小林隆氏から語られた日系二世の野球チーム「バンクーバー朝日」の物語です。
低賃金と過酷な肉体労働と人種差別の中で、フェアプレーに徹し、西海岸の白人リーグを制し、日系移民や白人までも熱狂させた。しかし、1941年の真珠湾攻撃により日系移民は強制収容所へ移住させられ、苦難の歴史を歩む。
製材所で肉体労働に就き、キャプテンのレジ-笠原を演じる妻夫木聡や亀梨和也、佐藤浩市をはじめ高畑充希、宮崎あおいほかの演技派俳優が勢揃いとのこと。栃木県足利市に設けられた巨大なオープンセット、再現されたパウエル球場、日系移民が住んでいた日本人街、その隣にある白人街なども見応えがあった。
それにしても、戦争の問題が深く関わっていることを忘れることはできず、戦後日系カナダ人への謝罪と補償を求めるリドレス運動とカナダ政府の謝罪と補償、更に映画でも触れられた2003年、「朝日」のカナダ野球の殿堂入りした。

念のため、後藤紀夫『伝説の野球チーム バンクーバー朝日』(岩波書店)を読んでみると、実に多くの人々が関係し、苦労したことを知ることができる。そして、1914年の「朝日」創設時のメンバーに開出今出身の5人がいたことも確認できた。
日夏とも関係が深い北米移民の感動の物語を、忘れないでおきたい。
気になるので、彦根ビバシティシネマへ見に行きました。

映画館は久しぶりですが、やはり大迫力でした。
10月の18日の日夏歴史研究会の歴史講演会、「彦根の北米移民」でも小林隆氏から語られた日系二世の野球チーム「バンクーバー朝日」の物語です。
低賃金と過酷な肉体労働と人種差別の中で、フェアプレーに徹し、西海岸の白人リーグを制し、日系移民や白人までも熱狂させた。しかし、1941年の真珠湾攻撃により日系移民は強制収容所へ移住させられ、苦難の歴史を歩む。
製材所で肉体労働に就き、キャプテンのレジ-笠原を演じる妻夫木聡や亀梨和也、佐藤浩市をはじめ高畑充希、宮崎あおいほかの演技派俳優が勢揃いとのこと。栃木県足利市に設けられた巨大なオープンセット、再現されたパウエル球場、日系移民が住んでいた日本人街、その隣にある白人街なども見応えがあった。
それにしても、戦争の問題が深く関わっていることを忘れることはできず、戦後日系カナダ人への謝罪と補償を求めるリドレス運動とカナダ政府の謝罪と補償、更に映画でも触れられた2003年、「朝日」のカナダ野球の殿堂入りした。
念のため、後藤紀夫『伝説の野球チーム バンクーバー朝日』(岩波書店)を読んでみると、実に多くの人々が関係し、苦労したことを知ることができる。そして、1914年の「朝日」創設時のメンバーに開出今出身の5人がいたことも確認できた。
日夏とも関係が深い北米移民の感動の物語を、忘れないでおきたい。
倒れた木の根
今年も残り少なくなりました。
少し風邪気味で、数日おとなしくしています。
12月の森づくり森づかい市民講座は、明23日10:00~彦根の護国神社内 ほっこりカフェ朴前で行われる、OMBKおうみ木質バイオマス利用研究会の「炎をいただく 薪割りと餅つき」を当てるとのことで、妙楽寺山への山行きは、1月31日(土)に延期。
日夏里館へも行ってみたのですが、少し山が気になるので行ってみました。

10月25日に除去していただいた倒れたコナラの大木、輪切りにしていただいた幹はいいのですが、倒れた木の根は大変気になります。
何とか除去したいものです。

横にも枯れた木もあり、課題は多いことを再確認しただけでしたが。
ところで、伊吹山は今日も吹雪いているようでした。
少し風邪気味で、数日おとなしくしています。
12月の森づくり森づかい市民講座は、明23日10:00~彦根の護国神社内 ほっこりカフェ朴前で行われる、OMBKおうみ木質バイオマス利用研究会の「炎をいただく 薪割りと餅つき」を当てるとのことで、妙楽寺山への山行きは、1月31日(土)に延期。
日夏里館へも行ってみたのですが、少し山が気になるので行ってみました。
10月25日に除去していただいた倒れたコナラの大木、輪切りにしていただいた幹はいいのですが、倒れた木の根は大変気になります。
何とか除去したいものです。
横にも枯れた木もあり、課題は多いことを再確認しただけでしたが。
ところで、伊吹山は今日も吹雪いているようでした。
『句集 ほのとある』
日夏里館で活動されている寺村しげる氏から『句集 ほのとある』をいただきました。


t傘寿の記念の出版で、氏の「ほのとある希望のやうに梅匂ふ」の句からとられたとのこと。
ホトトギス誌に入選した句のなかから選ばれ、さらに「フォト俳句」、俳句の師宮田思洋氏を偲ぶお話などが収録されています。
記念の句集、ありがとうございました。少し羨ましくなりました。
ところで、カンボジア大地の会の活動展示がなされていた日夏里館1階ホール、今日は日夏句会の「フォト俳句」が展示されていました。また、びわこ句会の方の作品も展示されています。


日夏里館一階ホールでお楽しみ下さい。
t傘寿の記念の出版で、氏の「ほのとある希望のやうに梅匂ふ」の句からとられたとのこと。
ホトトギス誌に入選した句のなかから選ばれ、さらに「フォト俳句」、俳句の師宮田思洋氏を偲ぶお話などが収録されています。
記念の句集、ありがとうございました。少し羨ましくなりました。
ところで、カンボジア大地の会の活動展示がなされていた日夏里館1階ホール、今日は日夏句会の「フォト俳句」が展示されていました。また、びわこ句会の方の作品も展示されています。
日夏里館一階ホールでお楽しみ下さい。
タグ :フォト俳句
村役場事務室はいっぱい。
相変わらず、悩みながらの日々です。
改修直後には何も置いていなかった日夏里館の村役場事務室は、現在机なども搬入して少しいっぱいです。2階にあった戸棚も、運び込みました。

村長室には、北米移民関係の資料を収蔵していきたいと思います。北川甚六氏の大きなトランクもこの部屋に収蔵しています。
隣の応接室には、2階公民館事務室にあった昔の机を置いてみました。

できれば、ヴォーリズ建築や日夏の歴史に関わる資料なども収集していきたいものです。
まあ、ぼちぼちかな。

今朝は、荒神山はきれいでした。
雪をいただいた伊吹山もきれいでした。

改修直後には何も置いていなかった日夏里館の村役場事務室は、現在机なども搬入して少しいっぱいです。2階にあった戸棚も、運び込みました。
村長室には、北米移民関係の資料を収蔵していきたいと思います。北川甚六氏の大きなトランクもこの部屋に収蔵しています。
隣の応接室には、2階公民館事務室にあった昔の机を置いてみました。
できれば、ヴォーリズ建築や日夏の歴史に関わる資料なども収集していきたいものです。
まあ、ぼちぼちかな。
今朝は、荒神山はきれいでした。
雪をいただいた伊吹山もきれいでした。
『「生存」の東北史 歴史から問う3・11』を読む
今日は10時前から雪が舞っていました。
午後3時頃にはアラレが降ってきました。やはり寒い。
ブログの投稿が少し滞ってしまいました。
この間、少し気になった大門正克ほか編『「生存」の東北史 歴史から問う3・11』(大月書店)を読みました。内容は、東京新宿での講座と気仙沼でのフォーラムをベースにしたものとのことです。
この本のあとがきにかえてを参考にして記すと、日夏に生まれ、暮らし、日夏村役場・産業組合合同庁舎である日夏里館の建物に関係した一人として、語り継ぐ必要性を感じる。そもそもこのブログの始まりも、この建物が無くなってしまっては、この建物に関係してきた人々と地域の歴史が忘れ去られてしまうことを危惧してのことだった。建物が完成した昭和10年(1935)は、地域にとっても重要な時期であった。それは、まちづくりに燃えていた時代のように、私には思える。戦前から戦中、そして戦後にかけて人々は「どう生きようとしたのか、何を学び、何を引き受け、自らのあすをどう再構築しようとしたのか。」語り継ぐ責務があると感じるからでもある。
人の記憶は必ず薄れ、時代の気分は驚くほど早く移ろっていく中で、建物の存在が思い出すことを助けてくれると強く思うからだった。地域の歴史を掘り起こしていく中で、更に新しい発見をすることができるもものと思う。無限の可能性を無にすることはできなかった。それは、地域の先祖に対する冒涜のようにも思われたからだ。
こんなことを言っているのは、年寄りの老婆心かも知れないが、この書で紹介されていた石巻市雄勝町での地域復興を学ぶ総合学習と子どもたちの復興プランに見られるような、次世代の子どもたちによる活用の可能性を残しておき、期待したい。
ともかく、語り継ぐ努力をしたいと思わせる一書でした。
最後に、今日の日夏里館。

午後3時頃にはアラレが降ってきました。やはり寒い。
ブログの投稿が少し滞ってしまいました。
この間、少し気になった大門正克ほか編『「生存」の東北史 歴史から問う3・11』(大月書店)を読みました。内容は、東京新宿での講座と気仙沼でのフォーラムをベースにしたものとのことです。
この本のあとがきにかえてを参考にして記すと、日夏に生まれ、暮らし、日夏村役場・産業組合合同庁舎である日夏里館の建物に関係した一人として、語り継ぐ必要性を感じる。そもそもこのブログの始まりも、この建物が無くなってしまっては、この建物に関係してきた人々と地域の歴史が忘れ去られてしまうことを危惧してのことだった。建物が完成した昭和10年(1935)は、地域にとっても重要な時期であった。それは、まちづくりに燃えていた時代のように、私には思える。戦前から戦中、そして戦後にかけて人々は「どう生きようとしたのか、何を学び、何を引き受け、自らのあすをどう再構築しようとしたのか。」語り継ぐ責務があると感じるからでもある。
人の記憶は必ず薄れ、時代の気分は驚くほど早く移ろっていく中で、建物の存在が思い出すことを助けてくれると強く思うからだった。地域の歴史を掘り起こしていく中で、更に新しい発見をすることができるもものと思う。無限の可能性を無にすることはできなかった。それは、地域の先祖に対する冒涜のようにも思われたからだ。
こんなことを言っているのは、年寄りの老婆心かも知れないが、この書で紹介されていた石巻市雄勝町での地域復興を学ぶ総合学習と子どもたちの復興プランに見られるような、次世代の子どもたちによる活用の可能性を残しておき、期待したい。
ともかく、語り継ぐ努力をしたいと思わせる一書でした。
最後に、今日の日夏里館。
タグ :生存