雪の日夏里館
今日はなかなかの雪でした。
朝あわてて、家の周りの雪退けをしました。
大変きれいでした。
東からの日夏里館

南からの日夏里館

西側日夏里館の正面。誰かUターンしたみたい。

寒そうでしたが、荒神山もきれいでした。

ところで、9月18日に投稿した「気になる堀端のヴォーリズ建築」、やはり少し気になるので近くへ行くと、囲いのシートが掛けられていました。

彦根市の予算も通ったでしょうから、移築のためとはいえ、近く解体されるのでしょうか?・・・・
当初の設計図は残っているのでしょうか?
無ければ実測されるのでしょうか?・・・
(正直なところは、できることなら日夏里館の修理経費にまわして欲しい。)
ついでに、彦根城の堀の一コマも。

早く春になって欲しい・・・
朝あわてて、家の周りの雪退けをしました。
大変きれいでした。
東からの日夏里館

南からの日夏里館

西側日夏里館の正面。誰かUターンしたみたい。

寒そうでしたが、荒神山もきれいでした。

ところで、9月18日に投稿した「気になる堀端のヴォーリズ建築」、やはり少し気になるので近くへ行くと、囲いのシートが掛けられていました。

彦根市の予算も通ったでしょうから、移築のためとはいえ、近く解体されるのでしょうか?・・・・
当初の設計図は残っているのでしょうか?
無ければ実測されるのでしょうか?・・・
(正直なところは、できることなら日夏里館の修理経費にまわして欲しい。)
ついでに、彦根城の堀の一コマも。

早く春になって欲しい・・・
日夏里館前の石碑
朝鮮人街道沿いの日夏里館の道の北側に苔生した石碑があります。

以前から気になっていたのですが、現状では読みにくく、振り返られることがないのが実情です。
良質の石材に刻まれた文字は、こけを掃除すれば読むことができます。
碑上部の題名も勿論縦書きで、「故近衞歩兵天野栄次郎之碑」と刻まれています。下手な拓本を採って本文を読んでみました。
天野栄次郎は資性温厚、事に臨んで逡巡しなかったので、郷中に愛された。
父は孫平、その三男である。適齢期に近衞に入り、これは明治27年(1894)であった。
兵籍にあり精励し能く軍規を墨守した。
日本は清国に宣戦布告し、栄次郎も出征奮戦したが、金洲野戦病院に斃れた。
遺族は哀悼のため碑を建て永く忠魂を慰まんとした。
明治31年(1898)10月、兄の天野他次郎が建てた。

天野栄次郎氏が亡くなった時期は、日清戦争と関係があるようです。
日本は、明治27年(1894)8月1日清国に宣戦布告し(日清戦争)、明治28年(1895)4月17日日清講和条約に調印した。
朝鮮の独立の承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金の2億両支払い、欧米なみの通商条約締結などを得た。
この日清戦争の損害では、死者・廃疾者1万7000人、馬1万1500頭、軍費2億47万という。
4月23日独仏露3国公使は、遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出(三国干渉)した。
日清戦争の戦死者の石碑でした。
戦争について考えさせてくれる遺産の一つかも知れません。
日本側からの見方のみでなく、清国や朝鮮半島・台湾の側から考えてみることも大切なのでしょう。
地域の歴史の中で、このような石碑をどのように活かしていくのか、課題かも知れません。

以前から気になっていたのですが、現状では読みにくく、振り返られることがないのが実情です。
良質の石材に刻まれた文字は、こけを掃除すれば読むことができます。
碑上部の題名も勿論縦書きで、「故近衞歩兵天野栄次郎之碑」と刻まれています。下手な拓本を採って本文を読んでみました。
天野栄次郎は資性温厚、事に臨んで逡巡しなかったので、郷中に愛された。
父は孫平、その三男である。適齢期に近衞に入り、これは明治27年(1894)であった。
兵籍にあり精励し能く軍規を墨守した。
日本は清国に宣戦布告し、栄次郎も出征奮戦したが、金洲野戦病院に斃れた。
遺族は哀悼のため碑を建て永く忠魂を慰まんとした。
明治31年(1898)10月、兄の天野他次郎が建てた。

天野栄次郎氏が亡くなった時期は、日清戦争と関係があるようです。
日本は、明治27年(1894)8月1日清国に宣戦布告し(日清戦争)、明治28年(1895)4月17日日清講和条約に調印した。
朝鮮の独立の承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金の2億両支払い、欧米なみの通商条約締結などを得た。
この日清戦争の損害では、死者・廃疾者1万7000人、馬1万1500頭、軍費2億47万という。
4月23日独仏露3国公使は、遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出(三国干渉)した。
日清戦争の戦死者の石碑でした。
戦争について考えさせてくれる遺産の一つかも知れません。
日本側からの見方のみでなく、清国や朝鮮半島・台湾の側から考えてみることも大切なのでしょう。
地域の歴史の中で、このような石碑をどのように活かしていくのか、課題かも知れません。
地域探求学の学生さん 来館!
今日14日は、朝から雨でしたが、私はお仕事にお出かけ。
一昨日12日には、滋賀県立大学地域探求学のため環境科学部一回生の島津君が来てくれました。
近江環人の荒木敬之さんに協力いただき対応しました。

ヴォーリズ建築の豊郷小学校の保存運動のことは知っているとのことでした。
ヴォーリズ建築で唯一の役場建築と考えられる日夏村役場の建物(日夏里館)をめぐっても、ささやかなドラマがあることを少しお話ししました。
一生懸命メモをとっていてくれましたが、
それにしても、痛みがひどいと少しびっくりしたようでした。
建物の傷みは、地域の人々がこの建物にどのように対応してきたかを物語ってくれていると思います。
しかし、地域の歴史の証人としての意義が再認識され、これからこの建物を多くの方々が大切にし、改修されれば、きっと見違えるようになることと思われます。
この建物に込められた日夏の人々の想いが、活かされること、
そんな日となることを目指して、努力したい。
一昨日12日には、滋賀県立大学地域探求学のため環境科学部一回生の島津君が来てくれました。
近江環人の荒木敬之さんに協力いただき対応しました。

ヴォーリズ建築の豊郷小学校の保存運動のことは知っているとのことでした。
ヴォーリズ建築で唯一の役場建築と考えられる日夏村役場の建物(日夏里館)をめぐっても、ささやかなドラマがあることを少しお話ししました。
一生懸命メモをとっていてくれましたが、
それにしても、痛みがひどいと少しびっくりしたようでした。
建物の傷みは、地域の人々がこの建物にどのように対応してきたかを物語ってくれていると思います。
しかし、地域の歴史の証人としての意義が再認識され、これからこの建物を多くの方々が大切にし、改修されれば、きっと見違えるようになることと思われます。
この建物に込められた日夏の人々の想いが、活かされること、
そんな日となることを目指して、努力したい。
日夏山 昔の写真発見!
日夏里館の玄関前に設置している『日夏山』
この曳山の最初の写真が発見されました。
これまで、昭和30年の日夏小学校80周年記念に引き出された写真が、現役で活用されていた唯一の写真でした。
今回、北川富美子さんのアルバムに日夏山の写真が発見されたので、提供いただきました。

撮影日は昭和29年4月20日。
朝鮮人街道から河瀬駅へ向かう道路の交差点、現在の日夏町中沢の信号付近です。
曳山の右側の建物は、石屋さんの建物でした。
曳山の屋根の正面には、日夏商工会のマークらしいものが見えます。
大勢の地域の人々が出て、大変賑わっていることが見て取れます。

この写真は、左端に見える玄関灯から、現日夏里館=日夏村役場正面と考えられます。
柱と欄干の様子が確認できます。

泉集落に巡行している写真です。朝鮮人街道から泉のお寺の方に入ってきており、道がかなり狭く、酒屋さん付近まで漸く入ったところでしょう。
昭和29年の春祭りの日で、この時日夏の太鼓が出ないため、商工会が山車を巡行させ祭をしたとのことです。
北川さんは踊りの子どもとして参加していたとのことです。
この時の友達だった方々も、この写真を見れば懐かしく思われことでしょう。
それにしても、多くの人々の参加に、すごい盛り上がりがあったことが見て取れるようです。
皆さんも、昔の写真アルバムを調べられては如何でしょうか。
この曳山の最初の写真が発見されました。
これまで、昭和30年の日夏小学校80周年記念に引き出された写真が、現役で活用されていた唯一の写真でした。
今回、北川富美子さんのアルバムに日夏山の写真が発見されたので、提供いただきました。

撮影日は昭和29年4月20日。
朝鮮人街道から河瀬駅へ向かう道路の交差点、現在の日夏町中沢の信号付近です。
曳山の右側の建物は、石屋さんの建物でした。
曳山の屋根の正面には、日夏商工会のマークらしいものが見えます。
大勢の地域の人々が出て、大変賑わっていることが見て取れます。

この写真は、左端に見える玄関灯から、現日夏里館=日夏村役場正面と考えられます。
柱と欄干の様子が確認できます。

泉集落に巡行している写真です。朝鮮人街道から泉のお寺の方に入ってきており、道がかなり狭く、酒屋さん付近まで漸く入ったところでしょう。
昭和29年の春祭りの日で、この時日夏の太鼓が出ないため、商工会が山車を巡行させ祭をしたとのことです。
北川さんは踊りの子どもとして参加していたとのことです。
この時の友達だった方々も、この写真を見れば懐かしく思われことでしょう。
それにしても、多くの人々の参加に、すごい盛り上がりがあったことが見て取れるようです。
皆さんも、昔の写真アルバムを調べられては如何でしょうか。
日夏里館だより 第2号 新年号
上天気の2013年1月1日でした。
『日夏里館だより』第2号をお届けします。
2~3頁は日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第27号です。
昭和19年・20年頃の日夏村役場の2階での記念写真をお届けします。
2階の議事堂の正面に掲げられた「和風満堂」の額は、興味深いものでしょう。




今年もよろしくお願いいたします。
『日夏里館だより』第2号をお届けします。
2~3頁は日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第27号です。
昭和19年・20年頃の日夏村役場の2階での記念写真をお届けします。
2階の議事堂の正面に掲げられた「和風満堂」の額は、興味深いものでしょう。




今年もよろしくお願いいたします。