日夏里館 日夏山
今日の日夏里館。
前に曳山の「日夏山」があります。下半部の車が無く、筋交いで持たされているのは痛々しい感じがします。いつか再生したいものです。

この曳山が日夏にもたらされたのは昭和29年(1954)、62年前でした。彦根の曳き山を河﨑松吉氏が多賀大社の馬頭人を勤められた記念に購入された物でした。
その時の遺品を、年末掃除をしていて見つけました。

記念に配布された徳利と盃で、「昭和二十九年春 馬頭人河﨑松吉」と文字が記されています。
この徳利と一緒にあった新聞は、昭和41年(1966)4月1日の『近江同盟新聞』でした。50年前のものです。
広告欄を見ると、3つの映画館、「彦劇」・「彦根協映」・「第一会館」が掲載されています。他にも興味深い記載がいっぱいです。

ところで、今日も荒神山ウォークしました。
11時から、少し曇って寒そうでしたが帰りには晴れてきました。
やはり、林道日夏山線の登り口には自転車や車がいっぱいでした。
しかし、登り口の近くの皆伐された山裾はひどい。


多くの人が歩いて登る本当に身近な里山、この里山の自然を守るために今回の問題は放置できないように思われます。
まじめに取り組めば、この問題から学ぶことが多いように思われます。
前に曳山の「日夏山」があります。下半部の車が無く、筋交いで持たされているのは痛々しい感じがします。いつか再生したいものです。
この曳山が日夏にもたらされたのは昭和29年(1954)、62年前でした。彦根の曳き山を河﨑松吉氏が多賀大社の馬頭人を勤められた記念に購入された物でした。
その時の遺品を、年末掃除をしていて見つけました。
記念に配布された徳利と盃で、「昭和二十九年春 馬頭人河﨑松吉」と文字が記されています。
この徳利と一緒にあった新聞は、昭和41年(1966)4月1日の『近江同盟新聞』でした。50年前のものです。
広告欄を見ると、3つの映画館、「彦劇」・「彦根協映」・「第一会館」が掲載されています。他にも興味深い記載がいっぱいです。
ところで、今日も荒神山ウォークしました。
11時から、少し曇って寒そうでしたが帰りには晴れてきました。
やはり、林道日夏山線の登り口には自転車や車がいっぱいでした。
しかし、登り口の近くの皆伐された山裾はひどい。
多くの人が歩いて登る本当に身近な里山、この里山の自然を守るために今回の問題は放置できないように思われます。
まじめに取り組めば、この問題から学ぶことが多いように思われます。
曳山「日夏山」の額発見
日夏里館の表に設置しています曳山「日夏山」は、戦後復興期の彦根の曳山の遺品として唯一のものです。
日夏町に払い下げられ、昭和29年4月に「日夏山」として巡行したことが知られています。また、昭和30年3月日夏小学校80周年記念にも活用されています。この曳山の額が残っていること確認できました。
日夏商工会の最後の役をしておられた若林貞男さん(湖東無線)が残しておられたものです。

額は2面あり、小さい方は縦20.4㎝、横50.2㎝の大きさで、独特の書体で「日夏山」と書かれています。曳山正面の唐破風の下に取り付けられていたもので、昭和30年の写真にも写っています。


もう一面の額は縦43.8㎝、横68㎝の大きさで、曳山真ん中に掲げられていたことが、昭和29年の写真から確認できます。表具に傷みがあり、日夏山と書いた書は残っていませんでしたので、将来修復が必要です。


ともかくも、約60年も前の曳山の額が残されていたことは幸いです。
日夏山の再生を何とかしたいものだと思います。
できれば、知恵や力をお貸しいただければ幸いです。
日夏町に払い下げられ、昭和29年4月に「日夏山」として巡行したことが知られています。また、昭和30年3月日夏小学校80周年記念にも活用されています。この曳山の額が残っていること確認できました。
日夏商工会の最後の役をしておられた若林貞男さん(湖東無線)が残しておられたものです。
額は2面あり、小さい方は縦20.4㎝、横50.2㎝の大きさで、独特の書体で「日夏山」と書かれています。曳山正面の唐破風の下に取り付けられていたもので、昭和30年の写真にも写っています。

もう一面の額は縦43.8㎝、横68㎝の大きさで、曳山真ん中に掲げられていたことが、昭和29年の写真から確認できます。表具に傷みがあり、日夏山と書いた書は残っていませんでしたので、将来修復が必要です。

ともかくも、約60年も前の曳山の額が残されていたことは幸いです。
日夏山の再生を何とかしたいものだと思います。
できれば、知恵や力をお貸しいただければ幸いです。
タグ :曳山
「日夏山」を再生したい
昨日3月17日は上天気で、久しぶりに畑仕事をしたら今朝は腰が痛い。
ちょっと年を感じる。
さて、現在日夏里館前に曳山の「日夏山」が据えられていて、この前を通った人々に不思議がられているのではないかと思われます。

この曳山は、台車部分がなくなっているのですが、永年古川吉男家の門として活用されてきたものでした。2012年7月7日、県立大学生の応援を得て日夏里館まで移動し、現在日夏里館の正面に設置しています。
実は、日夏里館への移動にも協力いただいた古川吉男氏が、16日夕方亡くなられたとのことで、本当にびっくり。
ご冥福をお祈りします。
ついては、この「日夏山再生プロジェクト」を湖東定住自立圏の地域創造事業としてを日夏里フォーラムから提案されているところです。
何とか曳山に台車を作成し幅広く活用できるよう、再生することを期待したいと思います。
ところで、16日は、午前中は日夏歴史研究会の学習会で、3つの報告があり充実した内容でした。

滋賀県立大学大学院生の刈谷さんは、日夏山についして研究成果を報告してくれました。彦根の曳山の中で銀座山の野村善一氏が撮影された昭和31年の銀座山の8ミリ映像も紹介してくれ、当時の様子がよく分かりました。
泉エコーくらぶの荒木さんからは「心に残る五感で体験したことをまとめてみよう-ふるさと絵図の作成に向けて-」と題した報告では、目に浮かぶなつかしい風景、耳に残る音、なつかしい匂い、よみがえる感触、思い出の味、印象深い方言や言い回し、暮らしの中での体験について紹介がありました。
寺村会長からは「千手寺の屋根の修復と頼母子講(円通講)」のテーマで、詳細な資料に基づく紹介があり、明治22年の円通講加入者194人105本の内訳なども説明されました。
春を迎え、いろいろなことが動きつつあります。
追々紹介していきたいと思います。
ちょっと年を感じる。
さて、現在日夏里館前に曳山の「日夏山」が据えられていて、この前を通った人々に不思議がられているのではないかと思われます。

この曳山は、台車部分がなくなっているのですが、永年古川吉男家の門として活用されてきたものでした。2012年7月7日、県立大学生の応援を得て日夏里館まで移動し、現在日夏里館の正面に設置しています。
実は、日夏里館への移動にも協力いただいた古川吉男氏が、16日夕方亡くなられたとのことで、本当にびっくり。
ご冥福をお祈りします。
ついては、この「日夏山再生プロジェクト」を湖東定住自立圏の地域創造事業としてを日夏里フォーラムから提案されているところです。
何とか曳山に台車を作成し幅広く活用できるよう、再生することを期待したいと思います。
ところで、16日は、午前中は日夏歴史研究会の学習会で、3つの報告があり充実した内容でした。
滋賀県立大学大学院生の刈谷さんは、日夏山についして研究成果を報告してくれました。彦根の曳山の中で銀座山の野村善一氏が撮影された昭和31年の銀座山の8ミリ映像も紹介してくれ、当時の様子がよく分かりました。
泉エコーくらぶの荒木さんからは「心に残る五感で体験したことをまとめてみよう-ふるさと絵図の作成に向けて-」と題した報告では、目に浮かぶなつかしい風景、耳に残る音、なつかしい匂い、よみがえる感触、思い出の味、印象深い方言や言い回し、暮らしの中での体験について紹介がありました。
寺村会長からは「千手寺の屋根の修復と頼母子講(円通講)」のテーマで、詳細な資料に基づく紹介があり、明治22年の円通講加入者194人105本の内訳なども説明されました。
春を迎え、いろいろなことが動きつつあります。
追々紹介していきたいと思います。
日夏山 昔の写真発見!
日夏里館の玄関前に設置している『日夏山』
この曳山の最初の写真が発見されました。
これまで、昭和30年の日夏小学校80周年記念に引き出された写真が、現役で活用されていた唯一の写真でした。
今回、北川富美子さんのアルバムに日夏山の写真が発見されたので、提供いただきました。

撮影日は昭和29年4月20日。
朝鮮人街道から河瀬駅へ向かう道路の交差点、現在の日夏町中沢の信号付近です。
曳山の右側の建物は、石屋さんの建物でした。
曳山の屋根の正面には、日夏商工会のマークらしいものが見えます。
大勢の地域の人々が出て、大変賑わっていることが見て取れます。

この写真は、左端に見える玄関灯から、現日夏里館=日夏村役場正面と考えられます。
柱と欄干の様子が確認できます。

泉集落に巡行している写真です。朝鮮人街道から泉のお寺の方に入ってきており、道がかなり狭く、酒屋さん付近まで漸く入ったところでしょう。
昭和29年の春祭りの日で、この時日夏の太鼓が出ないため、商工会が山車を巡行させ祭をしたとのことです。
北川さんは踊りの子どもとして参加していたとのことです。
この時の友達だった方々も、この写真を見れば懐かしく思われことでしょう。
それにしても、多くの人々の参加に、すごい盛り上がりがあったことが見て取れるようです。
皆さんも、昔の写真アルバムを調べられては如何でしょうか。
この曳山の最初の写真が発見されました。
これまで、昭和30年の日夏小学校80周年記念に引き出された写真が、現役で活用されていた唯一の写真でした。
今回、北川富美子さんのアルバムに日夏山の写真が発見されたので、提供いただきました。

撮影日は昭和29年4月20日。
朝鮮人街道から河瀬駅へ向かう道路の交差点、現在の日夏町中沢の信号付近です。
曳山の右側の建物は、石屋さんの建物でした。
曳山の屋根の正面には、日夏商工会のマークらしいものが見えます。
大勢の地域の人々が出て、大変賑わっていることが見て取れます。

この写真は、左端に見える玄関灯から、現日夏里館=日夏村役場正面と考えられます。
柱と欄干の様子が確認できます。

泉集落に巡行している写真です。朝鮮人街道から泉のお寺の方に入ってきており、道がかなり狭く、酒屋さん付近まで漸く入ったところでしょう。
昭和29年の春祭りの日で、この時日夏の太鼓が出ないため、商工会が山車を巡行させ祭をしたとのことです。
北川さんは踊りの子どもとして参加していたとのことです。
この時の友達だった方々も、この写真を見れば懐かしく思われことでしょう。
それにしても、多くの人々の参加に、すごい盛り上がりがあったことが見て取れるようです。
皆さんも、昔の写真アルバムを調べられては如何でしょうか。
日夏山に変化
日夏里館の前に設置されている日夏の曳山に変化。
今日は上天気で、日夏の曳山「日夏山」の再生プロジェクトで、屋根のペンキ塗りが実施されました。

シーリングの補充作業を実施し、屋根のペンキを塗りはじめられたのは4時ころから。
塗り終わるのかと心配しました。

夕方暗くなる5時頃に何とか塗り終わりました。
塗り終わり写真は、やや暗くなったので今日は無し。
中西さん、横木さん、荒木さんお疲れ様でした。
「日夏山」再生プロジェクトは、参加者・協力者を募集中とのことです。
今日は上天気で、日夏の曳山「日夏山」の再生プロジェクトで、屋根のペンキ塗りが実施されました。

シーリングの補充作業を実施し、屋根のペンキを塗りはじめられたのは4時ころから。
塗り終わるのかと心配しました。

夕方暗くなる5時頃に何とか塗り終わりました。
塗り終わり写真は、やや暗くなったので今日は無し。
中西さん、横木さん、荒木さんお疲れ様でした。
「日夏山」再生プロジェクトは、参加者・協力者を募集中とのことです。
タグ :曳山