日夏木曜ハウスの試行
旧農協日夏支店の場所を利用して、12月17日および12月24日に日夏木曜ハウスの試行が行なわれました。

炊込み飯やエビの飴炊き等も用意されていました。


旧支店内売店跡の部分には、12月6日の日夏町民会館フェスタの発表の様子の写真が展示されています。撮影は、疋田耕一さんによるものです。撮影のタイミングは絶妙です。是非、見にお越しください。
炊込み飯やエビの飴炊き等も用意されていました。
旧支店内売店跡の部分には、12月6日の日夏町民会館フェスタの発表の様子の写真が展示されています。撮影は、疋田耕一さんによるものです。撮影のタイミングは絶妙です。是非、見にお越しください。
豊郷小学校保存運動の記録を読む その2
古川博康・本田清春著『近江商人 古川鉄治郎とW・メレル・ヴォーリズ 歴史と文化薫る学び舎 豊郷小学校 校舎保存運動の記録-豊郷小学校問題の全貌-』を読んで、少し前に日夏ヴォーリズ建築の保存について、船寄俊雄氏の文を借用して考えてみました。

今回は、豊郷小学校卒業生で、この保存運動の中心となって居られた本田清春氏の文「豊郷小学校の原風景と地域文化」についても、勝手ながら引いておきたいと思います。
「なぜそこまでして、豊郷小学校の校舎・校庭を守ろうとするのですか。」という質問に対する答えとして、
「豊郷小学校への強い愛着があるとともに、
私たち郷土の歴史がこの小学校には詰まっているから」
「今を生きるものはこれから生きるものへ、この歴史を受け継ぐ使命をもっているから」
「校舎が、地域の人々の歴史と深く結びついてきた歴史をもっているとき、校舎は単なる校舎ではなく歴史の生き証人としての性格を持ったものとして現れてくる。これを豊郷小学校校舎の保存運動は訴えた」
古川鉄治郎翁への尊敬があり、「豊郷に生きてきた人々の「豊郷の誇りある歴史」を含みこんだ豊郷小学校像のひとつは、近江商人としての価値観に触れることのできる校舎だったのであろう。」
宮本憲一氏「足もとから維持可能な社会」講演で、マンフォード『都市の文化』をテキストにした講演を元にした記述の上で、
「21世紀に入り、私たちはそれぞれの地域のもつ固有性(人間に例えると個性)を生かし、一層高度な文化を作り上げなければならない。地域文化-地域で作り上げられてきた優れた文化や町なみ景観には、人間が豊かな精神生活を送っていける要素が組み込まれているということを改めて考える。より高度な地域文化を実現するためには、住民の豊かな感性と、文化性が求められることは当然だが、しかしそれだけではない。この地域、豊郷での激しい対立をみれば明らかなように、歴史的景観であっても、それをいとも簡単に破壊し、再構成することで生じる権利に集まる者、それは多くは権力を伴って現れるが、その者との対立を引き受け、それを乗り越える静かな覚悟をもったリーダーたちが必要となる。21世紀は、こうした覚悟をもった人びとを生み出す必要性をはらみながら、より高い文化を作り上げていくことになるだろう。
最後に、”創造的破壊”ではなく、単に古くなったからという理由で、現校舎を公用廃止とし、歴史的景観を破壊してまで、新しい建物を建設するという愚かな町施設のやり方に対して、われわれの保存再生運動-”学校の原風景を取り戻そうとする運動”は、世界の流れに加わり、”より高度な地域文化を構築・形成する”ことを目標にしているのであることを付け加えておく。」と記されている。
生きた証言として肝に銘じておきたい。

今回は、豊郷小学校卒業生で、この保存運動の中心となって居られた本田清春氏の文「豊郷小学校の原風景と地域文化」についても、勝手ながら引いておきたいと思います。
「なぜそこまでして、豊郷小学校の校舎・校庭を守ろうとするのですか。」という質問に対する答えとして、
「豊郷小学校への強い愛着があるとともに、
私たち郷土の歴史がこの小学校には詰まっているから」
「今を生きるものはこれから生きるものへ、この歴史を受け継ぐ使命をもっているから」
「校舎が、地域の人々の歴史と深く結びついてきた歴史をもっているとき、校舎は単なる校舎ではなく歴史の生き証人としての性格を持ったものとして現れてくる。これを豊郷小学校校舎の保存運動は訴えた」
古川鉄治郎翁への尊敬があり、「豊郷に生きてきた人々の「豊郷の誇りある歴史」を含みこんだ豊郷小学校像のひとつは、近江商人としての価値観に触れることのできる校舎だったのであろう。」
宮本憲一氏「足もとから維持可能な社会」講演で、マンフォード『都市の文化』をテキストにした講演を元にした記述の上で、
「21世紀に入り、私たちはそれぞれの地域のもつ固有性(人間に例えると個性)を生かし、一層高度な文化を作り上げなければならない。地域文化-地域で作り上げられてきた優れた文化や町なみ景観には、人間が豊かな精神生活を送っていける要素が組み込まれているということを改めて考える。より高度な地域文化を実現するためには、住民の豊かな感性と、文化性が求められることは当然だが、しかしそれだけではない。この地域、豊郷での激しい対立をみれば明らかなように、歴史的景観であっても、それをいとも簡単に破壊し、再構成することで生じる権利に集まる者、それは多くは権力を伴って現れるが、その者との対立を引き受け、それを乗り越える静かな覚悟をもったリーダーたちが必要となる。21世紀は、こうした覚悟をもった人びとを生み出す必要性をはらみながら、より高い文化を作り上げていくことになるだろう。
最後に、”創造的破壊”ではなく、単に古くなったからという理由で、現校舎を公用廃止とし、歴史的景観を破壊してまで、新しい建物を建設するという愚かな町施設のやり方に対して、われわれの保存再生運動-”学校の原風景を取り戻そうとする運動”は、世界の流れに加わり、”より高度な地域文化を構築・形成する”ことを目標にしているのであることを付け加えておく。」と記されている。
生きた証言として肝に銘じておきたい。
日夏木曜ハウス
日夏町民会館フェスタは多くの人が集まる場となり大成功でした。そのあと話が煮えたよで、「日夏木曜ハウス」のチラシが届きました。日夏ボランテアくらぶのみなさんによる企画です。
去る10月31日に「日夏町民会館」の活用を考える会で、みんなの居場所をつくる会の土田滋男さんからお話しをいただいたことと関係するように思います。

最初は12月17日の木曜日に始まるそうです。その次は12月24日の木曜日だそうです。お誘い合わせの上ご参加ください。
地域の人々の語らいの場となれば楽しいのではないかと思います。
日夏町民会館はかなり広いのですが、カフエーの計画も持ち上がっています。
しかし、日夏村役場の床は痛みがひどく、これからどのように修理していったらよいのか、ちょっと苦慮しています。
また、少しずつ紹介していきたいと思います。
去る10月31日に「日夏町民会館」の活用を考える会で、みんなの居場所をつくる会の土田滋男さんからお話しをいただいたことと関係するように思います。

最初は12月17日の木曜日に始まるそうです。その次は12月24日の木曜日だそうです。お誘い合わせの上ご参加ください。
地域の人々の語らいの場となれば楽しいのではないかと思います。
日夏町民会館はかなり広いのですが、カフエーの計画も持ち上がっています。
しかし、日夏村役場の床は痛みがひどく、これからどのように修理していったらよいのか、ちょっと苦慮しています。
また、少しずつ紹介していきたいと思います。
日夏ヴォーリズ建築でのフェスタ 多彩!多彩!
ヴォーリズ建築である日夏町民会館で、有志手作りによるフェスタが開かれました。日夏の芸術文化創作にいそしむ人々を発見することが出来ました。実に多彩でした。
玄関横では野菜市も開かれました。
玄関を入った所には旧日夏小学校の鐘も鳴らせるように出品されていました。
旧日夏小学校の写真も展示されていました。
日夏町民会館のスケッチもありました。


日夏出身の画家寺嶋白耀氏の「百花百鳥」は注目すべき作品でした。
日夏村役場の投票箱、日夏小学校の瓦も展示されていました。
二階にも沢山の展示があり、カールさんによる英会話も開かれました。
午後は二階大広間で舞台発表がありました。
最初は30年以上も町民会館で活動を続けている詩吟 錦城流日夏教場の皆さんの発表でした。
寺村英夫さんの民話の朗読は、荒神山の蛇石や十王水などの楽しい語りでした。
南京玉すだれ・民謡、最後に江州音頭も参加者と一緒に輪になって踊られました。

カンボジア地雷撤去のためのバザーも行なわれました。
またまだいろいろな活動をして居られる方がおられそうです。彦根景観フォーラム理事長の山崎一眞氏(滋賀大学教授)がおっしゃって居られた地域の埋蔵文化人の再発見の場として広がっていけば幸いです。
ご尽力いただいた皆さん、ありがとうございました。

玄関横では野菜市も開かれました。

玄関を入った所には旧日夏小学校の鐘も鳴らせるように出品されていました。

旧日夏小学校の写真も展示されていました。

日夏町民会館のスケッチもありました。



日夏出身の画家寺嶋白耀氏の「百花百鳥」は注目すべき作品でした。

日夏村役場の投票箱、日夏小学校の瓦も展示されていました。

二階にも沢山の展示があり、カールさんによる英会話も開かれました。

午後は二階大広間で舞台発表がありました。
最初は30年以上も町民会館で活動を続けている詩吟 錦城流日夏教場の皆さんの発表でした。

寺村英夫さんの民話の朗読は、荒神山の蛇石や十王水などの楽しい語りでした。

南京玉すだれ・民謡、最後に江州音頭も参加者と一緒に輪になって踊られました。


カンボジア地雷撤去のためのバザーも行なわれました。
またまだいろいろな活動をして居られる方がおられそうです。彦根景観フォーラム理事長の山崎一眞氏(滋賀大学教授)がおっしゃって居られた地域の埋蔵文化人の再発見の場として広がっていけば幸いです。
ご尽力いただいた皆さん、ありがとうございました。
朝鮮人街道の道標
朝鮮人街道を南から来ると、荒神山の山裾を廻って宇曽川に出る天王山の山裾に、千手寺への道標があります。

道標の後の小山にはかって牛頭天王社があったそうですが、日夏八ヶ村が関係していたようです。現在は大きな忠魂碑が建てられています。
道標から右手宇曽川沿いに行くと古屋敷があり、八幡宮もあり、その奥階段を上っていくと千手寺があります。千手寺には千手観音がお祀りされており、彦根藩とも関係が深い寺院です。

道標には「右千手寺」「左八まん」と深く刻まれています。それ以外の文字が刻まれていないため、何時、誰が設置したものかわかりません。
先に紹介した島自治会の集会所で開催された日夏歴史研究会による歴史講演会の時、この道標のことを記した古文書が展示されていました。

「道分ヶ石之事」と題するこの古文書によると、往来する諸人の案内のため設置を島村に相談し、彦根藩の寺社奉行、筋奉行、普請奉行へ書面で御願いし、三奉行の許可が得られたのでいよいよ設置するとして、島村にこの文書を提出したようです。
この文書提出して道標を建てたのは千手寺の一抱、その年は文政元年(1818)で、今から191前であったことが判明します。
地域の史料を丹念に調べていくと、埋もれた地域の歴史を再発見していくことが出来るように思います。

道標の後の小山にはかって牛頭天王社があったそうですが、日夏八ヶ村が関係していたようです。現在は大きな忠魂碑が建てられています。
道標から右手宇曽川沿いに行くと古屋敷があり、八幡宮もあり、その奥階段を上っていくと千手寺があります。千手寺には千手観音がお祀りされており、彦根藩とも関係が深い寺院です。

道標には「右千手寺」「左八まん」と深く刻まれています。それ以外の文字が刻まれていないため、何時、誰が設置したものかわかりません。
先に紹介した島自治会の集会所で開催された日夏歴史研究会による歴史講演会の時、この道標のことを記した古文書が展示されていました。

「道分ヶ石之事」と題するこの古文書によると、往来する諸人の案内のため設置を島村に相談し、彦根藩の寺社奉行、筋奉行、普請奉行へ書面で御願いし、三奉行の許可が得られたのでいよいよ設置するとして、島村にこの文書を提出したようです。
この文書提出して道標を建てたのは千手寺の一抱、その年は文政元年(1818)で、今から191前であったことが判明します。
地域の史料を丹念に調べていくと、埋もれた地域の歴史を再発見していくことが出来るように思います。