2015年05月11日

埋もれさせたくない「講和記念植樹」石碑

平和を願った日夏を示す石碑、草に埋もれた「講和記念植樹」石碑では悲しい。
日夏歴史研究会の5月9日の見学会は「北米移民関係遺跡の見学と清掃」でした。先ず、日夏町のグランドの東角にある「講和記念植樹」の石碑の確認と草刈りを行いました。


作業前はこれ。

この石碑については、日夏歴史研究会だより『日夏の歴史と文化』第23号(2012年3月1日発行)に、写真付きで次のように紹介しています。

講和記念植樹の石碑
 昨秋新公民館が完成したとのことで見学に行った時、グランドの片隅に不思議な石碑があることを知りました。現在日夏保育園横のグランドの片隅ですが、碑の正面には「講和記念植樹」、裏面には「昭和二十七年四月」と刻まれています。
 この石碑は、かつての日夏小学校グランドの北角、給食室入り口近くの小山の上にあったようで、グランドの東角に移設されていましたが、保育園舎の増築に伴って奥まった状態になって、あまり振り返られることが無くなったようです。年配の方にお聞きしても誰が建てたのか、その事情は知られていないようです。
 この碑は、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約を記念するものです。1951年(昭和26年)9月8日に調印され、1952年(昭和27年)4月28日発効になったサンフランシスコ講和条約を記念しての植樹を伝える石碑です。
 彦根城の堀端でも講和記念及び市制15周年を記念して植樹がなされているようです。日夏は多くの人が北米に行っており、この講和条約によって行き来ができるようになったと考えられ、その喜びから植樹を行ったものでしょう。
 ところで、彦根市日夏青年団文化部発行の機関誌『清流』第4巻第1号(昭和27年5月5日発行)の後記には次のように記されていました。
  ○待望の講和発行も遂にその効力を発生し、我が国も再び国際社会の一員として復帰出来た事は喜ぶと共に、我等日本国民は此の歴史的厳粛なる事実を契機としてよりヒューマニズムへの確立に精進したい。
  ○清流も年を経る事此処に四年、本年度初刊号を此の講和の喜びと共に四月講和号として皆様に御贈りする。
 日夏の人々が如何にこの講和を喜んだことか、気づかされます。また、昭和27年4月、シアトルから故郷に帰り喜びを歌った古川与三次郎とカノ歌碑が、宇曽川唐崎公園の一角にあることが思い起こされます。やはりサンフランシスコ講和条約は日夏の人々にとっては、待ち望んでいたことだったのでしょう。

この石碑を建て、記念植樹をした日夏の人々は、草葉の陰からどう思っているでしょうか?

次ぎに、宇曽川唐崎公園にある故郷に帰ることが出来た喜びを詠った歌碑の廻りの掃除に向かいました。先に草刈りや葉刈りがされていたので、サツキの葉刈り柴の片付けと追加の草取りを行いました。少し粗い仕事振りながら、ありがたく思いました。


やはり2つの石碑の設置が同年同月であり、関係を考えざるを得ないように思います。講和条約によりアメリカ移民の多くが故郷へ里帰りが出来、平和の喜びを享受したことを忘れないでおきたい。
そして、平和を、先人とともに強く祈念したい。
草葉の陰からうめき声が聞こえないようにしたいものです。





Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 21:41 Comments( 0 ) 日夏歴史研究会 活動メモ
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プロフィール
日夏ヴォーリズ建築の会
フルヨじいさん

 本人はそんなに思っていないが、子どもたちから見ればやはりそのとおりか。

 日夏に生まれ日夏で暮らしてきた。これからも日夏の良さを再発見しながら暮らしていきたいと思う。できれば色々な方々と共に。