日野で曳山に出会う
御代参街道を通って三重に行くとき、日野で曳山を見つけました。

平和堂の横に展示されていました。
気になるので帰りに立ち寄ってみると、整備されている様子。
尋ねてみると、この曳山を作られたとのこと。
彫刻家 川嵜豊史さんで、なんと尾張旭市の方とのこと。
商工会のコンペで作ることになったとのこと。

足まわりは新しくプーレーキをつけるなど工夫がされていました。
お願いして名刺もいただいてきました。
御代参街道は森林浴といった感じでした。

また、素通りしていた関宿の町並みは大変昔の様子をとどめているので感心しました。

昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。
また、出直したくなりました。

平和堂の横に展示されていました。
気になるので帰りに立ち寄ってみると、整備されている様子。
尋ねてみると、この曳山を作られたとのこと。
彫刻家 川嵜豊史さんで、なんと尾張旭市の方とのこと。
商工会のコンペで作ることになったとのこと。

足まわりは新しくプーレーキをつけるなど工夫がされていました。
お願いして名刺もいただいてきました。
御代参街道は森林浴といった感じでした。

また、素通りしていた関宿の町並みは大変昔の様子をとどめているので感心しました。

昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。
また、出直したくなりました。
平成5年の日夏里館
昨日は雨降りでしたが、今日の午後は上天気で、暖かい日でした。
家の庭も草がいっぱいになってきていたので、草取りをしました。
ところで、午前には、『新修彦根市史』民俗編が発刊されたの、亀山支所まで購入に行きました。
「日夏地区」のページを開いてみると、旧日夏村役場の写真が掲載されていました。

平成5年11月3日の撮影とあります。
日夏町の敬老会開催時の写真です。
自転車が見られ、多くの方が集まっておられることが理解できます。
建物の前に日夏農協販売所と記された農協給油所があります。
村役場の玄関右には「東経」の看板が認められます。
「彦根市農協日夏支店」の看板があり、
売店部分は取り壊され鉄骨の部分が設置されていることが分かります。
たいへん興味深い写真で、市史編纂室に尋ねてみたいと思います。
ところで、同ページには明治6年12月の日夏村地券取調総絵図が掲載されています。
よく見ると、日夏村役場が設けられた場所は黄色に塗られ、田であったことが分かります。
まだまだ調べて行きたいものだと思います。
家の庭も草がいっぱいになってきていたので、草取りをしました。
ところで、午前には、『新修彦根市史』民俗編が発刊されたの、亀山支所まで購入に行きました。
「日夏地区」のページを開いてみると、旧日夏村役場の写真が掲載されていました。

平成5年11月3日の撮影とあります。
日夏町の敬老会開催時の写真です。
自転車が見られ、多くの方が集まっておられることが理解できます。
建物の前に日夏農協販売所と記された農協給油所があります。
村役場の玄関右には「東経」の看板が認められます。
「彦根市農協日夏支店」の看板があり、
売店部分は取り壊され鉄骨の部分が設置されていることが分かります。
たいへん興味深い写真で、市史編纂室に尋ねてみたいと思います。
ところで、同ページには明治6年12月の日夏村地券取調総絵図が掲載されています。
よく見ると、日夏村役場が設けられた場所は黄色に塗られ、田であったことが分かります。
まだまだ調べて行きたいものだと思います。
大太鼓を見に九州へ
日夏の周辺では、春祭りに大きな太鼓が持ち出され打ち鳴らされます。
彦根市はもちろん湖東地域に広がっており、日夏が関係する唐崎神社は勿論、荒神山の西側の稲村神社や高宮神社の高宮祭りも太鼓祭りです。
また、近江八幡の日牟礼神社の火祭りも大太鼓の祭りとして知られています。
場合によっては5尺にも達する大太鼓、村々が競って大きな太鼓を求めてきた歴史があり、そのような太鼓の製作と皮の張り替えに応えてきた人たちがいて、近江の大太鼓文化が成り立っていることを忘れることができません。
実は、3月3日には博多へ行く必要があり、一足先の熊本駅の3つ先の宇土まで行ってきました。
宇土の大太鼓収蔵館を見学したいためです。

宇土市では、平成元年~3年にふるさと創生事業の一貫として、雨乞い太鼓を復興するため、26基の大太鼓を張り替え、伝承するために大太鼓収蔵館を建設したと言います。

大太鼓の皮は鉄の鋲でで留めますが、木栓で留められた事例があり、その木栓が大きくなり14面体の木星が33個ずつ取り付けられ、太鼓を大きく見せているのが特徴です。

館内の太鼓は敲いてもよいとのことなので、順に敲かせてもらいました。
平成2年に張り替えられていいますが、ゆるみはなくいい音がしました。
また、宇土市民会館にも一部収蔵されているとのことでしたので立ち寄らせていただきました。
わらび座看板役者から転身されたという副館長大和田正人氏に案内いただきましたが、「宇土文化の源流、雨乞い大太鼓」を大切にしながら、文化の輪を拡げ、日本一のホールを目指して取り組んでおられるとのことでした。

市民会館前の公民館には紅梅が咲いていました。
機会があればもう少し紹介したいと思いますが、近江湖東の大太鼓文化と比較しながら考えてみたいと思います。
太鼓は敲けば音が出ます。
誰でも鳴らすことができるのよいのでは。
各地に創作太鼓が生まれていますが、太鼓の歴史についても学習することも大切ではないかと思います。
彦根市はもちろん湖東地域に広がっており、日夏が関係する唐崎神社は勿論、荒神山の西側の稲村神社や高宮神社の高宮祭りも太鼓祭りです。
また、近江八幡の日牟礼神社の火祭りも大太鼓の祭りとして知られています。
場合によっては5尺にも達する大太鼓、村々が競って大きな太鼓を求めてきた歴史があり、そのような太鼓の製作と皮の張り替えに応えてきた人たちがいて、近江の大太鼓文化が成り立っていることを忘れることができません。
実は、3月3日には博多へ行く必要があり、一足先の熊本駅の3つ先の宇土まで行ってきました。
宇土の大太鼓収蔵館を見学したいためです。

宇土市では、平成元年~3年にふるさと創生事業の一貫として、雨乞い太鼓を復興するため、26基の大太鼓を張り替え、伝承するために大太鼓収蔵館を建設したと言います。

大太鼓の皮は鉄の鋲でで留めますが、木栓で留められた事例があり、その木栓が大きくなり14面体の木星が33個ずつ取り付けられ、太鼓を大きく見せているのが特徴です。

館内の太鼓は敲いてもよいとのことなので、順に敲かせてもらいました。
平成2年に張り替えられていいますが、ゆるみはなくいい音がしました。
また、宇土市民会館にも一部収蔵されているとのことでしたので立ち寄らせていただきました。
わらび座看板役者から転身されたという副館長大和田正人氏に案内いただきましたが、「宇土文化の源流、雨乞い大太鼓」を大切にしながら、文化の輪を拡げ、日本一のホールを目指して取り組んでおられるとのことでした。

市民会館前の公民館には紅梅が咲いていました。
機会があればもう少し紹介したいと思いますが、近江湖東の大太鼓文化と比較しながら考えてみたいと思います。
太鼓は敲けば音が出ます。
誰でも鳴らすことができるのよいのでは。
各地に創作太鼓が生まれていますが、太鼓の歴史についても学習することも大切ではないかと思います。
タグ :大太鼓
歴史を秘めた楠
今日の午前中の空はきれいに澄んでいました。
旧日夏村役場の報告書作りに関係して、滋賀県立大学へ行ってきました。

塔の左横に残月が見えたのでシャッターを押したのですが、あまり分からないでしょうか?
環境科学部へ向かう途中、塔の対岸に大きな楠がありました。
木の下に石碑があり、近寄ってみるとなかなか。

石碑には次のように記されていました。
楠
この木は、明治二十年私立淡海女学校の開学記念に植樹されたもので、以来、彦根高等女学校、彦根西高校へと一世紀余にわたり校史の変遷を見つめてきた。
また、昭和五年の同校の大火の時には、民家への類焼を防いだとも言われている。
昭和五十六年に道路拡幅により伐採の危機にあったものを造園家の熱意により別の土地に移され、この度県立大学の開学を機にこの地に移植されたものである。
淡海女学校(1887年)→彦根高等女学校→彦根西高校、そして県立大学へつづく歴史、昭和5年(1930)の大火のことを知ることができました。
石碑の裏面を確認することを忘れてしまったのですが、滋賀県立大学の開学が平成7年(1995)4月ですので、その時からこの地にたっているのでしょう。
どれだけの大学生が確認したか分かりませんが、120年あまりの歴史のいくコマかを振り返えらさせてくれる石碑の効用を再確認した次第です。
ものごとを語り伝え、顕彰するには、朽ちない石碑は最適かと思われます。
旧日夏村役場の報告書作りに関係して、滋賀県立大学へ行ってきました。

塔の左横に残月が見えたのでシャッターを押したのですが、あまり分からないでしょうか?
環境科学部へ向かう途中、塔の対岸に大きな楠がありました。
木の下に石碑があり、近寄ってみるとなかなか。

石碑には次のように記されていました。
楠
この木は、明治二十年私立淡海女学校の開学記念に植樹されたもので、以来、彦根高等女学校、彦根西高校へと一世紀余にわたり校史の変遷を見つめてきた。
また、昭和五年の同校の大火の時には、民家への類焼を防いだとも言われている。
昭和五十六年に道路拡幅により伐採の危機にあったものを造園家の熱意により別の土地に移され、この度県立大学の開学を機にこの地に移植されたものである。
淡海女学校(1887年)→彦根高等女学校→彦根西高校、そして県立大学へつづく歴史、昭和5年(1930)の大火のことを知ることができました。
石碑の裏面を確認することを忘れてしまったのですが、滋賀県立大学の開学が平成7年(1995)4月ですので、その時からこの地にたっているのでしょう。
どれだけの大学生が確認したか分かりませんが、120年あまりの歴史のいくコマかを振り返えらさせてくれる石碑の効用を再確認した次第です。
ものごとを語り伝え、顕彰するには、朽ちない石碑は最適かと思われます。
八幡堀保存運動に学ぶ
今日は朝から、日夏里館シャッターが調子悪いとのことなので、専門の方にお越しいただいて立会。
早くブログに投稿しなくては思いながらこんな時間になってしまった。
旧日夏村役場・産業組合合同庁舎の調査報告書のための原稿に取り組みながら、農協活動の知らなさに少し反省。
可能な限り明らかにしておきたいと思います。
さて、12月17日のシンポの時再確認させていただいた、川端五兵衛氏らが取り組まれた八幡堀再生運動に再度学んでみたいと思います。

西村幸夫・埒正浩編『証言・まちづくり』(学芸出版社、2011.8)掲載の2007年6月13日石川県立生涯学習センターでの川端氏の話をまとめた冊子がネタですが。
「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」青年会議所のスローガン
・八幡堀は歴史的に八幡発展の原点。堀の汚れは市民の心の汚れ。堀が物流機能を失い、市街地から流入する排水の富栄養化が原因。昔は市民が川ざらえをしていた。
・堀は自然に埋まったのではない、市民自らが埋めた犯人である。
「流行性ニーズ」時代の風潮によってくるくると変わる一過性のニーズ
「本態性ニーズ」自然環境や歴史・文化に根づいた市民や、まち全体が持っている気質や風土から生じる、まちづくりの方向づけの根幹。
歴史に根づいたもの。アイデンティティ。「不易と流行、これは両方なかったら、町というのは活性化しない」
八幡堀は市民のアイデンティティの源泉ではないか。堀の役割、物流の大動脈を失ったのだったらそれに代わる「新しい価値観を創造」したらどうかと提言した」
全面浚渫の主張に対する県からの専門的な注文、保存運動に求められた堀再生のための四つの課題のなかで、
第一「具体的な構想を図面で明らかに示せ」に対しては、京都大学の西川幸治氏にお願いし、保存修景計画「よみがえる八幡堀」という冊子を作り5千部を発刊した。
第四の「巨費を投じて全面浚渫する意義と必要性を示せ」に対しては、この地で一生を終えるときに幸せだと思われるようなまち、それが「死に甲斐のある終の栖」、「死に甲斐のあるまちをつくるため」とした。郷土愛、究極のまちづくりの思想。
→試行デモンストレーション 清掃活動
景観に対する市民意識の五段階
1.無関心の段階
2.気づきの段階
3.景観はみんなのものとの自覚する段階
4.景観は自分のものとの主張が生まれる段階(大切な景観を傷つけたら許さないと思う)
5.啓蒙する側に立つ段階(景観の保全・修景のリーダーとなる段階)
原風景に対し目の前にある風景(現(前)風景)は変えられる。
美しい原風景をみんなが共有できること、これこそが、究極のまちづくり。
リバーシブル・ディベロップメント
途中で一定の目的を達成した場合、これ以上続けていくことがマイナスであると気づいたら、もとへ戻してもいい。
可逆的な開発、可逆的な設計の勧め
ex. アメリカのビッグディック 高速道路を公園化
韓国で川の上にふたをした高速道路の川の復元
西の湖のクリーク地帯 巾35mの河川整備計画→重要文化的景観申請と選定
「まちづくりは身銭を切ること」「お金のある人は金を出したらいいではないか。体力のある人はボランティア活動をやつてください。知恵のある人は知恵を出してください。そして、三つとも駄目だという人は「この町が良くなりますように」といのってくださいと。それだけで結構です。これが究極のまちづくりです。」
誰が捨て汚したのか。大阪から来て捨てたのか。
→この問いに対して、みんなきれいにしてほしいと思っていた。
市民権を得た八幡堀清掃キャンペーン
浚渫のためのデモンストレーション、労働組合や市民の参加
西の湖の水郷景観をめぐって
水郷の四季の定点撮影→50年後の映写会の遺言 (50年後の評価に耐えられる行動)
「皆さんも私も五十年したら死んでいますから、子孫が評価するでしょう。」
この素晴らしい風景を守ってきたのは川端五兵衞ではない。ごみが流れてきたらすくい上げ、ヘドロが詰まってくれば道筋をきれいにし、クリークをずっと管理してきたのは自分たち(地域の人々。)これが美しいなんていうことは十分知っている。
土地の有効利用や農地の生産性、将来の農業を考えると泣く泣く土地改良をやらざるを得ない。苦渋の選択→その風景を愛していたのは農家の人たち
重要文化的景観、景観農業振興地域整備計画
農村集落へ拡大に伴う小学校での特別授業
「将来君たちが住む家はどれが一番いいと思う?」→「今住んでいるところ」との答え
豪華マンション・近代的洋風住宅
・現在の茅葺きや白壁の家並みでみんなが住んでいるところの三枚の写真
オンリーワンのまちづくり
観光は終の栖の内覧会
観光に来られる人を儲けの対象にしてはならない
観光のためでなく、市民の誇りのため
「自分たちがきちんとしたまちづくりをすれば、観光客はあとでやってきます。」
四つの風景
1一度行ってみたい風景、2一度遊んでみたい風景、3住んでみたい、4ここなら死んでもいい風景
歴史を知る者は未来を透徹する
「歴史を知る者はより優れて未来を透徹することができる。」
熱い想いが新たな道を切り開く
(西村幸夫さんのまとめ)
川端さんは、「常識を疑って、根本から自分たちの町を良くするためのことを考えると、道は開けてきたのです。それを支えてきたのは、やはり町に対する熱い想いですね。そのために汗を流すし、知恵も金も出すし、時間も費やす。そういう想いがいろいろな人を動かしてきたのだと思います。」
「素晴らしい景観を鑑賞するだけでなく、この景観を守るために、前例のないことを積み重ねてきた努力に学ばないといけない。」我々自身も、そういう壁を想いと熱意で越えていくことができる。そうゆう道を進まないといけないのではないか。
少しでもあやかりたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
早くブログに投稿しなくては思いながらこんな時間になってしまった。
旧日夏村役場・産業組合合同庁舎の調査報告書のための原稿に取り組みながら、農協活動の知らなさに少し反省。
可能な限り明らかにしておきたいと思います。
さて、12月17日のシンポの時再確認させていただいた、川端五兵衛氏らが取り組まれた八幡堀再生運動に再度学んでみたいと思います。
西村幸夫・埒正浩編『証言・まちづくり』(学芸出版社、2011.8)掲載の2007年6月13日石川県立生涯学習センターでの川端氏の話をまとめた冊子がネタですが。
「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」青年会議所のスローガン
・八幡堀は歴史的に八幡発展の原点。堀の汚れは市民の心の汚れ。堀が物流機能を失い、市街地から流入する排水の富栄養化が原因。昔は市民が川ざらえをしていた。
・堀は自然に埋まったのではない、市民自らが埋めた犯人である。
「流行性ニーズ」時代の風潮によってくるくると変わる一過性のニーズ
「本態性ニーズ」自然環境や歴史・文化に根づいた市民や、まち全体が持っている気質や風土から生じる、まちづくりの方向づけの根幹。
歴史に根づいたもの。アイデンティティ。「不易と流行、これは両方なかったら、町というのは活性化しない」
八幡堀は市民のアイデンティティの源泉ではないか。堀の役割、物流の大動脈を失ったのだったらそれに代わる「新しい価値観を創造」したらどうかと提言した」
全面浚渫の主張に対する県からの専門的な注文、保存運動に求められた堀再生のための四つの課題のなかで、
第一「具体的な構想を図面で明らかに示せ」に対しては、京都大学の西川幸治氏にお願いし、保存修景計画「よみがえる八幡堀」という冊子を作り5千部を発刊した。
第四の「巨費を投じて全面浚渫する意義と必要性を示せ」に対しては、この地で一生を終えるときに幸せだと思われるようなまち、それが「死に甲斐のある終の栖」、「死に甲斐のあるまちをつくるため」とした。郷土愛、究極のまちづくりの思想。
→試行デモンストレーション 清掃活動
景観に対する市民意識の五段階
1.無関心の段階
2.気づきの段階
3.景観はみんなのものとの自覚する段階
4.景観は自分のものとの主張が生まれる段階(大切な景観を傷つけたら許さないと思う)
5.啓蒙する側に立つ段階(景観の保全・修景のリーダーとなる段階)
原風景に対し目の前にある風景(現(前)風景)は変えられる。
美しい原風景をみんなが共有できること、これこそが、究極のまちづくり。
リバーシブル・ディベロップメント
途中で一定の目的を達成した場合、これ以上続けていくことがマイナスであると気づいたら、もとへ戻してもいい。
可逆的な開発、可逆的な設計の勧め
ex. アメリカのビッグディック 高速道路を公園化
韓国で川の上にふたをした高速道路の川の復元
西の湖のクリーク地帯 巾35mの河川整備計画→重要文化的景観申請と選定
「まちづくりは身銭を切ること」「お金のある人は金を出したらいいではないか。体力のある人はボランティア活動をやつてください。知恵のある人は知恵を出してください。そして、三つとも駄目だという人は「この町が良くなりますように」といのってくださいと。それだけで結構です。これが究極のまちづくりです。」
誰が捨て汚したのか。大阪から来て捨てたのか。
→この問いに対して、みんなきれいにしてほしいと思っていた。
市民権を得た八幡堀清掃キャンペーン
浚渫のためのデモンストレーション、労働組合や市民の参加
西の湖の水郷景観をめぐって
水郷の四季の定点撮影→50年後の映写会の遺言 (50年後の評価に耐えられる行動)
「皆さんも私も五十年したら死んでいますから、子孫が評価するでしょう。」
この素晴らしい風景を守ってきたのは川端五兵衞ではない。ごみが流れてきたらすくい上げ、ヘドロが詰まってくれば道筋をきれいにし、クリークをずっと管理してきたのは自分たち(地域の人々。)これが美しいなんていうことは十分知っている。
土地の有効利用や農地の生産性、将来の農業を考えると泣く泣く土地改良をやらざるを得ない。苦渋の選択→その風景を愛していたのは農家の人たち
重要文化的景観、景観農業振興地域整備計画
農村集落へ拡大に伴う小学校での特別授業
「将来君たちが住む家はどれが一番いいと思う?」→「今住んでいるところ」との答え
豪華マンション・近代的洋風住宅
・現在の茅葺きや白壁の家並みでみんなが住んでいるところの三枚の写真
オンリーワンのまちづくり
観光は終の栖の内覧会
観光に来られる人を儲けの対象にしてはならない
観光のためでなく、市民の誇りのため
「自分たちがきちんとしたまちづくりをすれば、観光客はあとでやってきます。」
四つの風景
1一度行ってみたい風景、2一度遊んでみたい風景、3住んでみたい、4ここなら死んでもいい風景
歴史を知る者は未来を透徹する
「歴史を知る者はより優れて未来を透徹することができる。」
熱い想いが新たな道を切り開く
(西村幸夫さんのまとめ)
川端さんは、「常識を疑って、根本から自分たちの町を良くするためのことを考えると、道は開けてきたのです。それを支えてきたのは、やはり町に対する熱い想いですね。そのために汗を流すし、知恵も金も出すし、時間も費やす。そういう想いがいろいろな人を動かしてきたのだと思います。」
「素晴らしい景観を鑑賞するだけでなく、この景観を守るために、前例のないことを積み重ねてきた努力に学ばないといけない。」我々自身も、そういう壁を想いと熱意で越えていくことができる。そうゆう道を進まないといけないのではないか。
少しでもあやかりたいと思います。
今年もよろしくお願いします。