今津のヴォーリズ通り
前回は今津ヴォーリズ資料館について紹介しました。
今回は、ヴォーリズ通りの他の建物についても紹介します。
そこでは、日夏ヴォーリズ建築と同時期の建物を発見!

これは今津教会会堂とヴォーリズ公園。
よく整備されています。

説明板には次のように記されていました。
今津教会会堂
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和9年(1934)、日本基督教団今津教会会堂として建てられました。大正11年(1922)、この会堂の裏手に今津基督教会館が建てられ、昭和7年にはそこに保育園が設けられました。
会堂は、切妻造で正面間口は約8メートル、建物の奥行きは約15メートルで、正面に玄関を突出させ、頂部には方形屋根の鐘塔があげられています。内部は、中央に礼拝堂、玄関の両側に事務室と読書室を配し、講壇の両側にも教室があります。外壁に使われる白壁やレンガ、また内部のチューダー様式の装飾などは、ヴォーリズ建築の特徴といえる日本の景観に溶け込んだ西洋建築を造りあげています。
平成15年、登録有形文化財指定されました。

昭和8年の設計であるようですが、
旧日夏村役場と同年の建設です。
窓の改修も、今後の参考になりそうです。
次に、旧今津郵便局は旧観を良くとどめているように思われる。

説明板のには次のことが記されていました。
旧今津郵便局
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和11年(1936)、今津郵便局として建てられました。昭和53年に現在の今津郵便局に移転するまで使用され、当初はここで電話交換事務も行なわれていました。建設当時の図面によると、1階東側には電報受付窓口や電信台が置かれていました。
切妻造り、妻入りで正面中央の玄関をややつきだし、入り口の半円アーチをタイルで縁取りし、コテージ風の意匠を取り入れてあります。
後少しの記載は、すみません。
写真を撮り存じました。
昭和9年の設計であるようで、やはり日夏ヴォーリズ建築と同時代と言えます。
当初の様子を伝える窓は、こんな感じです。
実は、この日藤樹書院と良知館へ行くつもりでした。
下小川の書院周辺は、花が飾られ、村の中を流れる川には錦鯉が泳ぎ、中江藤樹墓所もきれいに整備されていました。
良知館をはじめ村の人々が交替で世話をされているようです。
今も藤樹先生の教えが息づいているような、心地よい村でした。
今回は、ヴォーリズ通りの他の建物についても紹介します。
そこでは、日夏ヴォーリズ建築と同時期の建物を発見!

これは今津教会会堂とヴォーリズ公園。
よく整備されています。
説明板には次のように記されていました。
今津教会会堂
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和9年(1934)、日本基督教団今津教会会堂として建てられました。大正11年(1922)、この会堂の裏手に今津基督教会館が建てられ、昭和7年にはそこに保育園が設けられました。
会堂は、切妻造で正面間口は約8メートル、建物の奥行きは約15メートルで、正面に玄関を突出させ、頂部には方形屋根の鐘塔があげられています。内部は、中央に礼拝堂、玄関の両側に事務室と読書室を配し、講壇の両側にも教室があります。外壁に使われる白壁やレンガ、また内部のチューダー様式の装飾などは、ヴォーリズ建築の特徴といえる日本の景観に溶け込んだ西洋建築を造りあげています。
平成15年、登録有形文化財指定されました。
昭和8年の設計であるようですが、
旧日夏村役場と同年の建設です。
窓の改修も、今後の参考になりそうです。
次に、旧今津郵便局は旧観を良くとどめているように思われる。
説明板のには次のことが記されていました。
旧今津郵便局
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和11年(1936)、今津郵便局として建てられました。昭和53年に現在の今津郵便局に移転するまで使用され、当初はここで電話交換事務も行なわれていました。建設当時の図面によると、1階東側には電報受付窓口や電信台が置かれていました。
切妻造り、妻入りで正面中央の玄関をややつきだし、入り口の半円アーチをタイルで縁取りし、コテージ風の意匠を取り入れてあります。
後少しの記載は、すみません。
写真を撮り存じました。
昭和9年の設計であるようで、やはり日夏ヴォーリズ建築と同時代と言えます。
当初の様子を伝える窓は、こんな感じです。
実は、この日藤樹書院と良知館へ行くつもりでした。
下小川の書院周辺は、花が飾られ、村の中を流れる川には錦鯉が泳ぎ、中江藤樹墓所もきれいに整備されていました。
良知館をはじめ村の人々が交替で世話をされているようです。
今も藤樹先生の教えが息づいているような、心地よい村でした。
今津でヴォーリズセット
昨日の後半から今日は、台風の9号の接近と通過のため、久方ぶりの雨降り。
昨日、今津を通ることがあり、その時ヴォーリズ建築があったことを思い出し、訪ねてみた。
なんと「ヴォーリズ通り」があった。
その最初に今津ヴォーリズ資料館があった。

説明板には、次の通り記されていました。
今津ヴォーリズ資料館
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、大正12年(1923)、旧百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として建てられました。昭和53年に銀行が移転した後は、今津町が買い取り、町立図書館として平成13年まで利用されました。約10メートル四方、鉄筋コンクリート造りの2階建てで、外壁にはレンガを二重に積んではめこんで構築してあります。様式は、同時期の銀行建築によくみられる西洋古典建築様式を継承した意匠でまとめられ、正面中央の玄関をはさむ2本の柱には略式のトスカナ式柱頭をつけ両側を壁柱としています。
長年の使用の間に増改築が重ねられきましたが、町立図書館の移転後、ほぼ建設当初の姿に修復され、平成15年4月、今津ヴォーリズ資料館として開館しました。
平成15年、登録有形文化財に指定されました。
大変きれいに改修がなされ、館内には改修の記録も含めて紹介されていました。

そこで見かけたメニュー。

何と、「ヴォーリズセット」があった。
勿論賞味してきました。

ベジタブルカレーもなかなかのものでした。
今津は、滋賀のヴォーリズ建築を考える上で大切な地域であることを再認識させられました。
つづきは、おって紹介します。
昨日、今津を通ることがあり、その時ヴォーリズ建築があったことを思い出し、訪ねてみた。
なんと「ヴォーリズ通り」があった。
その最初に今津ヴォーリズ資料館があった。
説明板には、次の通り記されていました。
今津ヴォーリズ資料館
ヴォーリズ建築事務所の設計によって、大正12年(1923)、旧百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として建てられました。昭和53年に銀行が移転した後は、今津町が買い取り、町立図書館として平成13年まで利用されました。約10メートル四方、鉄筋コンクリート造りの2階建てで、外壁にはレンガを二重に積んではめこんで構築してあります。様式は、同時期の銀行建築によくみられる西洋古典建築様式を継承した意匠でまとめられ、正面中央の玄関をはさむ2本の柱には略式のトスカナ式柱頭をつけ両側を壁柱としています。
長年の使用の間に増改築が重ねられきましたが、町立図書館の移転後、ほぼ建設当初の姿に修復され、平成15年4月、今津ヴォーリズ資料館として開館しました。
平成15年、登録有形文化財に指定されました。
大変きれいに改修がなされ、館内には改修の記録も含めて紹介されていました。
そこで見かけたメニュー。
何と、「ヴォーリズセット」があった。
勿論賞味してきました。
ベジタブルカレーもなかなかのものでした。
今津は、滋賀のヴォーリズ建築を考える上で大切な地域であることを再認識させられました。
つづきは、おって紹介します。
日系2世・3世・4世の来訪
6月28日午後天候が心配だったのですが、日系2世と3世(その子)と4世(その子ども)の方が日夏においでになりました。
せっかくの機会ですので、日夏小学校はなくなっているため、日夏村役場の建物にご案内しました。

旧日夏村役場の建物である日夏町民会館「日夏里館」の一階ホールには、昔の写真などを展示しています。
懐かしい昔の写真を見ながら話が弾みました。
また、地域に残されていたシアトルの写真を見ながら色々なことを聞くことが出来ました。
アメリカでは、日系の一族が集まってパーティー等をされる機会もあり、集合写真なども拝見することが出来ました。
それでも、日本語が分る日系二世からいろいろお聞きしておくべきことも多いように思われました。
関係者のお宅にも案内し、一世が1962年里帰りして宇曽川堤の桜を愛でて詠んだ歌の歌碑が宇曽川の畔にあるため、せっかくですのでそこにも案内しました。
宇曽川の水のなか(流)れとはな(花)を見て
かた(語)り合ひけるけふ(今日)のうれしき
最後に荒神山の頂上までドライブして琵琶湖を見下ろし、湖東の平野の様子を見ていただきました。
それでもアメリカへ渡り、勤勉に働き、苦労しながらその地で家族をもり立ててきた人々の歴史を、聞き伝えることも大切と思われます。
それも急ぐ必要がありそうです。
せっかくの機会ですので、日夏小学校はなくなっているため、日夏村役場の建物にご案内しました。
旧日夏村役場の建物である日夏町民会館「日夏里館」の一階ホールには、昔の写真などを展示しています。
懐かしい昔の写真を見ながら話が弾みました。
また、地域に残されていたシアトルの写真を見ながら色々なことを聞くことが出来ました。
アメリカでは、日系の一族が集まってパーティー等をされる機会もあり、集合写真なども拝見することが出来ました。
それでも、日本語が分る日系二世からいろいろお聞きしておくべきことも多いように思われました。
関係者のお宅にも案内し、一世が1962年里帰りして宇曽川堤の桜を愛でて詠んだ歌の歌碑が宇曽川の畔にあるため、せっかくですのでそこにも案内しました。
宇曽川の水のなか(流)れとはな(花)を見て
かた(語)り合ひけるけふ(今日)のうれしき
最後に荒神山の頂上までドライブして琵琶湖を見下ろし、湖東の平野の様子を見ていただきました。
それでもアメリカへ渡り、勤勉に働き、苦労しながらその地で家族をもり立ててきた人々の歴史を、聞き伝えることも大切と思われます。
それも急ぐ必要がありそうです。
日夏里館(ひかりかん)
日夏ヴォーリズ建築の建物の名前を、
「日夏里館」(ひかりかん)とすることになりました。
この建物に親しみを持ち、活用いただいている関係団体の方々の会議の中で考え出された名前です。
この名前は、去る5月15日号の『日夏町自治会報』で紹介されました。

この裏面に日夏里館のこと、これからの利用方法などについても紹介されました。
色々な方の想いや意見があるようですが、この日夏里館が、これからのまちづくりの拠点として、日夏の里の憩いの場となることを念願しています。
ところで、暗くなって近くの川へ行くと、源氏ボタルが出ていることを知りました。
もちろん一帯は、蛙の大合唱です。
ホタルの観察会は、6月5日にあるそうです。追って紹介します。
「日夏里館」(ひかりかん)とすることになりました。
この建物に親しみを持ち、活用いただいている関係団体の方々の会議の中で考え出された名前です。
この名前は、去る5月15日号の『日夏町自治会報』で紹介されました。

この裏面に日夏里館のこと、これからの利用方法などについても紹介されました。
色々な方の想いや意見があるようですが、この日夏里館が、これからのまちづくりの拠点として、日夏の里の憩いの場となることを念願しています。
ところで、暗くなって近くの川へ行くと、源氏ボタルが出ていることを知りました。
もちろん一帯は、蛙の大合唱です。
ホタルの観察会は、6月5日にあるそうです。追って紹介します。
豊郷小学校保存運動の記録を読む その2
古川博康・本田清春著『近江商人 古川鉄治郎とW・メレル・ヴォーリズ 歴史と文化薫る学び舎 豊郷小学校 校舎保存運動の記録-豊郷小学校問題の全貌-』を読んで、少し前に日夏ヴォーリズ建築の保存について、船寄俊雄氏の文を借用して考えてみました。

今回は、豊郷小学校卒業生で、この保存運動の中心となって居られた本田清春氏の文「豊郷小学校の原風景と地域文化」についても、勝手ながら引いておきたいと思います。
「なぜそこまでして、豊郷小学校の校舎・校庭を守ろうとするのですか。」という質問に対する答えとして、
「豊郷小学校への強い愛着があるとともに、
私たち郷土の歴史がこの小学校には詰まっているから」
「今を生きるものはこれから生きるものへ、この歴史を受け継ぐ使命をもっているから」
「校舎が、地域の人々の歴史と深く結びついてきた歴史をもっているとき、校舎は単なる校舎ではなく歴史の生き証人としての性格を持ったものとして現れてくる。これを豊郷小学校校舎の保存運動は訴えた」
古川鉄治郎翁への尊敬があり、「豊郷に生きてきた人々の「豊郷の誇りある歴史」を含みこんだ豊郷小学校像のひとつは、近江商人としての価値観に触れることのできる校舎だったのであろう。」
宮本憲一氏「足もとから維持可能な社会」講演で、マンフォード『都市の文化』をテキストにした講演を元にした記述の上で、
「21世紀に入り、私たちはそれぞれの地域のもつ固有性(人間に例えると個性)を生かし、一層高度な文化を作り上げなければならない。地域文化-地域で作り上げられてきた優れた文化や町なみ景観には、人間が豊かな精神生活を送っていける要素が組み込まれているということを改めて考える。より高度な地域文化を実現するためには、住民の豊かな感性と、文化性が求められることは当然だが、しかしそれだけではない。この地域、豊郷での激しい対立をみれば明らかなように、歴史的景観であっても、それをいとも簡単に破壊し、再構成することで生じる権利に集まる者、それは多くは権力を伴って現れるが、その者との対立を引き受け、それを乗り越える静かな覚悟をもったリーダーたちが必要となる。21世紀は、こうした覚悟をもった人びとを生み出す必要性をはらみながら、より高い文化を作り上げていくことになるだろう。
最後に、”創造的破壊”ではなく、単に古くなったからという理由で、現校舎を公用廃止とし、歴史的景観を破壊してまで、新しい建物を建設するという愚かな町施設のやり方に対して、われわれの保存再生運動-”学校の原風景を取り戻そうとする運動”は、世界の流れに加わり、”より高度な地域文化を構築・形成する”ことを目標にしているのであることを付け加えておく。」と記されている。
生きた証言として肝に銘じておきたい。

今回は、豊郷小学校卒業生で、この保存運動の中心となって居られた本田清春氏の文「豊郷小学校の原風景と地域文化」についても、勝手ながら引いておきたいと思います。
「なぜそこまでして、豊郷小学校の校舎・校庭を守ろうとするのですか。」という質問に対する答えとして、
「豊郷小学校への強い愛着があるとともに、
私たち郷土の歴史がこの小学校には詰まっているから」
「今を生きるものはこれから生きるものへ、この歴史を受け継ぐ使命をもっているから」
「校舎が、地域の人々の歴史と深く結びついてきた歴史をもっているとき、校舎は単なる校舎ではなく歴史の生き証人としての性格を持ったものとして現れてくる。これを豊郷小学校校舎の保存運動は訴えた」
古川鉄治郎翁への尊敬があり、「豊郷に生きてきた人々の「豊郷の誇りある歴史」を含みこんだ豊郷小学校像のひとつは、近江商人としての価値観に触れることのできる校舎だったのであろう。」
宮本憲一氏「足もとから維持可能な社会」講演で、マンフォード『都市の文化』をテキストにした講演を元にした記述の上で、
「21世紀に入り、私たちはそれぞれの地域のもつ固有性(人間に例えると個性)を生かし、一層高度な文化を作り上げなければならない。地域文化-地域で作り上げられてきた優れた文化や町なみ景観には、人間が豊かな精神生活を送っていける要素が組み込まれているということを改めて考える。より高度な地域文化を実現するためには、住民の豊かな感性と、文化性が求められることは当然だが、しかしそれだけではない。この地域、豊郷での激しい対立をみれば明らかなように、歴史的景観であっても、それをいとも簡単に破壊し、再構成することで生じる権利に集まる者、それは多くは権力を伴って現れるが、その者との対立を引き受け、それを乗り越える静かな覚悟をもったリーダーたちが必要となる。21世紀は、こうした覚悟をもった人びとを生み出す必要性をはらみながら、より高い文化を作り上げていくことになるだろう。
最後に、”創造的破壊”ではなく、単に古くなったからという理由で、現校舎を公用廃止とし、歴史的景観を破壊してまで、新しい建物を建設するという愚かな町施設のやり方に対して、われわれの保存再生運動-”学校の原風景を取り戻そうとする運動”は、世界の流れに加わり、”より高度な地域文化を構築・形成する”ことを目標にしているのであることを付け加えておく。」と記されている。
生きた証言として肝に銘じておきたい。