2014年06月16日

北米移民の遺品 大きなトランク

旧日夏村役場と産業組合の合同庁舎であった日夏里館は、ヴォーリズ建築事務所の設計になる建物です。日夏村がヴォーリズ氏に設計を依頼したことと、北米移民の村であったこととは何らかの関係があると考えたいところです。

北米移民、アメリカ移民の実態はあまり研究は進んでいないように思われますが、移民二世で生存する人が少なくなっており、その実態を把握する努力を至急しないと分からなくなってしまうように思われます。

今年の3月アメリカへ行っておられた北川甚六氏、明治19年(1886)生まれで、昭和16年(1941)に亡くなられていますが、大きなトランク3つが残っていました。旧家の建て替え当のため、処分されるとのことで、3つの内一つのトランクを日夏里館にいただきました。


ちょっと点検してみましたところ、タテ86.5㎝、ヨコ53.1㎝、高さ58.5㎝の大きさで、一人ではもつことはできません。一応、下面に小さな車が付いていています。蓋上に「滋賀縣犬上郡日夏村泉 北川甚六」と墨書されていますが、側面に白いペンキの記載もあります。



また側面に、丸い張り紙や小さい張り紙が残っています。その内容はのように確認できます。
(丸い張り紙1)
 欧米各国内外汽船旅客取扱問屋 熊本屋旅館
   横濱市中区相生町五丁目正金銀行へ半丁  電話長者町(3)0413

(丸い張り紙2)
 近江屋旅館・びわこ湯・近江屋商店
   米国桑港サウスパーク百〇八、百十番  電話番號ドグラス四八九八
   第三街停車場へ一町半 日本汽船波止場へ一町半
   獨力建築業務擴張
   日本帰り迎妻又ハ子供呼寄ノ方ニ對シ萬事親切ニ御世話致シマス

(四角い張り紙)
  AM RY EX CO (INCORPORATED)
 SAN FRANCISCO.CALIF (Ferry Depot Office)

この大きなトランクはサンフランシスコから横浜に送られ、彦根へ届けられたと考えられます。
大正元年(1912)7月には北川甚六 27才、現地で撮影した写真が残っていて、撮影した写真館は次のようにあります。
  Hayashi
    1114FOURTH ST.
    SACRAMENTO, CAL.

甚六氏はカリフォルニアのサクラメントで活動されたと考えられます。
サクラメントの写真館も、林という日本人に関係しているようです。
アメリカ移民についての資料を、ともかく残しておいていただきたいと思います。





Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 21:58 Comments( 0 ) 日夏の歴史

2013年02月11日

日夏城 解説シート

荒神山の北の尾根上に日夏氏ゆかりの日夏城があります。
山の頂部が平らになっているので、気づかれるのではないでしょうか。



六角方の日夏氏は浅井長政の重臣磯野員昌に攻められますが、抗戦して難を逃れたようです。
その後浅井長政の配下となり、元亀4年(1573)信長の小谷城総攻撃で浅井氏とともに討ち死にし、日夏氏も没落したそうです。

この日夏氏の山城(戦時の詰城)の解説シートが、
市教育委員会文化財課により作成され、日夏里館にお届けいただきました。
平時の屋敷跡の遺跡や城の縄張り図も紹介されています。



日夏里館一階ホールカウンターに置いてあります。
興味のある方はご活用下さい。

なお、城跡は唐崎(とうざき)神社の南西側にあります。
自然の要害で険しく、荒神山自然の家のウオークラリーコース上にありますが、気づかれないことも多いのでは?


Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 21:14 Comments( 0 ) 日夏の歴史

2012年06月25日

昭和復興期の曳山

昭和30年3月、日夏小学校80周年を祝う「日夏山」です。



 日夏商工会が協賛し盛大だったようです。

この曳山が門として残っています。





 この門も近く解体されると聞きました。
傷みもあるのは事実ですが、この門を残すには移築するより方法がないとのこと。

昭和25年、彦根の春の商工祭りに5台の山車がまちを練り歩いたと言います。
日夏山も、それに続くような時期のものと考えられます。

かって農協、現日夏里館の裏に置かれていたことを年配の方はご存じと思います。



 今日の午後です。
周辺の工事は進みつつあり、早い移転をとのことです。

日夏の歴史の一齣を証明する遺構です。
「日夏の歴史と民俗」第10号、11号で紹介された遺構です。

なんとか、多くの方の協力をいただき、
日夏里館の裏にでも移築できないでしょうか。
本当に困ってしまいました。




Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 22:49 Comments( 0 ) 日夏の歴史

2012年02月28日

洋館完成の喜び 1935年

報告書作成のため旧日夏村役場関係の写真を整理していました。

やはり昭和10年(1935)4月19日の日夏村役場と産業組合落成式での人々の喜びはたいへんなものであったようです。


 昭和10年5月1日発行の日夏愛郷會の機関誌「日の出」創刊號には、次のように喜びが記されています。

 
 役場組合新築 腐朽して昨年九月の暴風雨に二階の天井が落ちんとした役場庁舎新築の議があり、組合と合併で建設するの企てあり、堂々たる西洋建の荘厳なるもの、後には精米などの作業場も出来、去る四月十九日花々しき落成式が挙行された。下は南側役場、北側組合で、売店部もきれいに飾られ、階上は九十四畳敷の大広間、村の会議等は此のかほり高い青畳の上で行はれることになり、庁員も新しい机に向って新しい気分で懸命の精励振りを発揮してゐる。



 この二階大広間は村会議事堂でもありました。

この2点の写真と、屋根裏に取り付けられている棟札は、当時のことを伝えてくれる大切な資料です。
報告書では、その後の動きをたどることになると思います。
乞う、ご期待







Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 00:51 Comments( 0 ) 日夏の歴史

2011年03月01日

荒神山を蘇らせた大橋利左衛門

 今月は話題が多い。

 「こんきくらぶ」3月号の巻頭特集は、
 「荒神山の緑を蘇らせた若き政治家 大橋利左衛門



 現在緑の山荒神山をめぐって植林を進めた若き政治家 大橋利左衛門のことが紹介されている。

 日夏歴史研究会の寺村二三夫氏の案内による記事で、氏のコメントや郷土誌『日夏の歴史』、日夏村役場も合わせて紹介されている。

  『新修彦根市史』第3巻にも 「大橋利左衛門」の植林事業がコラムとして紹介されている。

 大橋は、嘉永5年(1852)生まれ。
 明治11年3月、日夏村戸長大橋利左衛門ははげ山となっていた日夏村の荒神山に造林計画を立てるとともに、厳格な山林保護規定を設け、専任の山林監守人おいたという。

 明治13年日夏村に村会ができた時初代村会議長になり、明治13~15年、17~18年に犬上郡選手の県会議員を務め、明治18年には日夏村ほか4ヵ村の連合戸長となった。

 連合戸長としての大橋は、明治18年の大水害後の田圃の排水工事と、日夏街道あるいは日夏新道(朝鮮人街道から川瀬馬場村などを経て中山道に達する)の改修を行なったという。
 日夏新道は明治20年(1887)5月14日竣工したが、河瀬駅近くの踏切は河瀬地区にありながら「日夏踏切」とのこと。

 利左衛門は、明治21年(1888)、満35歳で死去。
 そして、64年も経った昭和29年(1956)、荒神山の天王山の麓に顕彰碑が建設されている。

 この碑の建設は、日夏村が彦根市に合併した昭和25年に日夏町自治会をつくり、その初代自治会長小田柿喜次郎の時に準備され、次の寺村民雄氏が自治会長の時、昭和29年に建設されたことが顕彰碑から判明する。

 日夏町の事業としての顕彰が強く意図されたことを再認識したい。

 なお、建立された年については留意が必要。





Posted by 日夏ヴォーリズ建築の会 at 21:10 Comments( 0 ) 日夏の歴史
QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
Information
ログインはこちら
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 9人
プロフィール
日夏ヴォーリズ建築の会
フルヨじいさん

 本人はそんなに思っていないが、子どもたちから見ればやはりそのとおりか。

 日夏に生まれ日夏で暮らしてきた。これからも日夏の良さを再発見しながら暮らしていきたいと思う。できれば色々な方々と共に。