張り子木型 意外な展開!
日夏里館だよりで紹介しました張り子の木型(旧日夏小学校の民具)について、その後急展開。
郷土誌『日夏の歴史』の中に、妙楽寺(日夏八ヶ村の一つで、日夏里館が立っている集落)に嘉永4年(1851)と安政4年(1857)、更に明治2年(1869)の記録に「面張職」が記されていました。妙楽寺の北川家と考えられ、同家では「面屋」(めんや)だったと聞き伝えおられました。


かつて水屋にあったという木製品を残しておかれました。
外に置かれていたこともあり、状態が悪いのですが、切り目が認められ、やはり張り子の木型であったことが確認されました。
張り子の制作は、明治17年(1884)に亡くなられた方までかと思われそうです。
日夏町の妙楽寺で彦根張り子が制作されていたとは、意外な発見でした。
また、先に報告した「おたふくさん」かと思った木型は、「猩々」とのことでした。

このことも意外でした。
藤野滋さんに教えていただきました。
ありがとうございました。
それにしても、少し不思議で気持ちが悪い物でしたが、木型を残しておいて本当によかったと思えてなりません。
この木型がなかったら、彦根張り子を制作した面張職の発見にたどり着くことはなかったように思われます。
旧日夏小学校の木型と一緒に保存することになりました。
郷土誌『日夏の歴史』の中に、妙楽寺(日夏八ヶ村の一つで、日夏里館が立っている集落)に嘉永4年(1851)と安政4年(1857)、更に明治2年(1869)の記録に「面張職」が記されていました。妙楽寺の北川家と考えられ、同家では「面屋」(めんや)だったと聞き伝えおられました。
かつて水屋にあったという木製品を残しておかれました。
外に置かれていたこともあり、状態が悪いのですが、切り目が認められ、やはり張り子の木型であったことが確認されました。
張り子の制作は、明治17年(1884)に亡くなられた方までかと思われそうです。
日夏町の妙楽寺で彦根張り子が制作されていたとは、意外な発見でした。
また、先に報告した「おたふくさん」かと思った木型は、「猩々」とのことでした。

このことも意外でした。
藤野滋さんに教えていただきました。
ありがとうございました。
それにしても、少し不思議で気持ちが悪い物でしたが、木型を残しておいて本当によかったと思えてなりません。
この木型がなかったら、彦根張り子を制作した面張職の発見にたどり着くことはなかったように思われます。
旧日夏小学校の木型と一緒に保存することになりました。